今、私たちは仏縁をいただき、仏法に出遇っています。では、どのようなことを機縁に仏法と出遇ったのでしょう。 よく耳にするのは幼い頃におじいちゃん、おばあちゃんに連れられてお寺にお参りしたということや、学びの場としてお寺に行ったとか、お寺でのイベント等に参加したとかいうことです。しかし、仏縁を結ぶ理由として最も多いのは家族や親しい人との今生での別れではないでしょうか。ご葬儀を縁として月参詣やお盆のお参り等のことをきっかけに仏法に出遇っていく。では、仏縁を頂いた時に私たちはどのようにしていけば良いのでしょう。今生で別れた人を想い、手を合わせていくことは大事なことです。しかし、それだけでは本当の意味で仏法に出遇ったとは言えません。仏法との出遇いを喜びとしていくことが大切であります。仏法に出遇った喜びは阿弥陀仏との出遇いという喜びでありましょう。 阿弥陀仏のお働き(願い・誓い)に気付き、感謝し喜んでいくことです。
『仏説無量寿経』に阿弥陀仏の願い・誓いが説かれています。その願い・誓いとは私たちが今生での命が尽きた時、「生きとし生ける者を必ず救うぞ」という救いであります。
阿弥陀仏が仏に成られる前、法蔵菩薩の頃に修行に先立って立てた四十八の願い(誓い・四十八願)が説かれているのです。
その四十八願の中でも私たちにとって最も重要な願いは十八番目の第十八願であると捉えます。
「私が仏となった時に、あらゆる衆生(生きとし生ける者)が、私の国(極楽浄土)へ往生することを願って念仏を称えたにもかかわらず、往生が出来なかったならば、私は仏には成らない」ということです。
私たちはこの願い・誓いを聞(聴)き、何を想い、感じていけばいいのか。
今生での命が尽きる時、要するに「死」を意識することが大事でありましょう。私たちの苦しみの中で、最も、又、最終的に考えてしまう事柄が「死」であります。「死」を考えた時、私たちは通常、不安や恐怖を感じるものです。それはその後にどうなるかわからないからに他なりません。だからこそ、阿弥陀仏は私たちにその後の行(往)き場所(極楽浄土)を定めてくれているのです。「心配するな、必ず救う」と。
極楽浄土は清浄の場所、苦しみの原因となる煩悩(欲)の無い世界であります。行(往)き場所が定まるということは、その後のことがわかり、不安や恐怖が少しずつでも無くなることにつながっていきます。結ばれた仏縁の中で安心をいただけた私たちは、自身を省みることが出来るのです。仏法を聞(聴)くとは、そういうことであると思います。
自身を省みることが出来たなら、私がたくさんのご縁の中で生かされていることにも気付き、感謝の心を持てるようになるのです。いろいろなご縁をもって結ばれた仏縁であります。親しい者との別れが生きていくために大切なことに気が付かせてくれていたのです。
今生での命尽きた者が死してもなお、私たちに働きかけてくれている。死した者は極楽浄土でゆっくりしているわけではありません。阿弥陀仏のお手伝いとして私たちを想い、願われているのです。
阿弥陀仏の願い・誓いにつなげてくださった方々を通して、仏法に出遇えた喜びに手を合わせ感謝していくのです。 「南無阿弥陀仏」(ありがとうございます)と・・・。
二〇二五(令和七)年 十二月