八月に入り、早いものでお盆を迎えます。昔からお盆とお正月は特別な時期だと考えられていますが、それは離れている家族や親戚、あるいは友人が地元に帰省して来るなど、人が集まることで賑やかになることが一因であろうかと思います。久しぶりに会う人がいれば、まずは挨拶を交わすでしょう。「こんにちは。」「元気だった?」「大きくなったね。」等々、人が集まればそれだけ挨拶も増えるものです。不思議なもので、何気ないたった一言で、その場の雰囲気が変わったり、親しみやすくなったり、お互いに気持ちよくなれる気がします。
しかし最近は、挨拶が出来ないのか、あるいはしないのか・・・。老若男女問わず、挨拶をしても返ってこないこともあります。中には「知らない人に声をかけられても返事をしないように」と教えられている子どももいますし、思春期の子どもであれば、恥ずかしいと思う気持ちもあるのかも知れません。では、大人はどうでしょうか?きっと誰でも「きちんと挨拶しなさい」と親や先生に言われてきたはずです。それであっても挨拶が出来なくなるのはなぜでしょうか?
二年ほど前にニュースで、「マンションのルールとして住民間の挨拶を禁止する」という報道がありました。その理由として、「挨拶しても返事がない場合、気分が悪い」「近所つきあいをしたくない人だっている」「マンションは他人の集まりなんだから」というものでした。
もちろん、そのルールに違和感を持つ人も多く、「挨拶できるかどうかで人間関係が変わる」「挨拶しないことで誰が近所なのか分からなくなって困る」「防犯など、失うものは大きい」という意見もあったようですが、結局は「挨拶禁止」が明文化されたという報道でした。
実際、マンションに住む人のアンケート調査では、毎回挨拶する人は2割程度で、残り8割近くは挨拶に消極的だという結果が出ているといいます。皆さんは、この報道や調査結果をどう感じるでしょうか?
挨拶しない人の中には「挨拶は無駄」と本気で考えている人もいるようです。心理学の研究では、「個人を尊重する教育を受けて育った人達の間で挨拶しない人が多く見られ、そのようなタイプの人は、自分自身を尊重するあまり、相手を思いやる気持ちが少なく、自分が挨拶をしないことで相手がどう感じるかは考えられない」という結果が出ているといいます。損得勘定で以て挨拶する、しないを判断してしまっていることには寂しさすら感じてしまいます。
挨拶とは、「あなたの存在を認めていますよ」という気持ちの現れであり、挨拶をしないことは相手の存在を認めていないということになります。インドの挨拶「ナマステー」は、「ナマ」とは「帰依する」、「ステー」とは「あなた」という意味だと言います。つまり、挨拶そのものが「あなたを敬っていますよ」という意味を持つのです。
念仏は 親の呼び声 子の返事
阿弥陀仏という親が、仏の子である私の存在を認め、呼びかけてくださっています。その呼び声が私に届き、私もまた「はい」と応えさせていただく。それがお念仏という親と子の挨拶であったと気づかせていただくことです。
個人を尊重するあまり自己中心的な考え方が蔓延している現代の日本においては、相手を敬う気持ちを持って挨拶することは難しいのかも知れません。お盆をご縁に兄弟や家族、親戚、友人が集まった時には、しっかりと挨拶を交わし近況を報告し合える関係を築きたいものです。