浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

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讃仏偈

No.646

例年とは違う環境のなかながら今年もお盆のお勤めをさせていただくことが出来ました。様々な制約があった中で、皆様にも何かとご不自由をお掛けし、ご協力をいただきました。本当にありがとうございました。今年もお盆のお勤めは、偈文を二巻、『讃仏偈』と『重誓偈』をお勤めさせていただきました。お勤めが終わって少しお話しする中で、「今のお勤めは?」という質問がありました。お経の名前が示されていないので疑問に思われたのでしょう。短い時間でしたが、簡単にお話しをさせていただきました。この度は『讃仏偈』についてお話ししきれなかったことも含めて、少し述べたいと思います。

偈文を二巻あげさせていただきましたが、
『讃仏偈』は初めにお勤めしたものです。

この「偈」というのは「うた」のことですので、「仏さまを讃えるうた」ということになります。私たち真宗の門徒は、仏さまというと阿弥陀さまのことと思われる方が多いのではないでしょうか。しかしここで讃えられている仏さまは阿弥陀さまではありません。このことについてお話しするために、『讃仏偈』が説かれているお経や、説かれている背景についてお話させていただきたいと思います。親鸞聖人が八万四千ともいわれる沢山のお経の中から選び取られたのが『仏説無量寿経』(以下『大経』)・『仏説観無量寿経』・『仏説阿弥陀経』で、浄土真宗が拠り所とする浄土三部経です。この中でも『大経』は最も大切な教えであり、『讃仏偈』はこの『大経』二巻のうちの上巻に述べられています。『大経』には阿弥陀さまがどのようにして仏さまとなられたのかということが説かれています。

「あるとき一人の国王が世自在王仏の説法を聞いて深く感動し自分もこの上ないさとりを開きたいという心をおこされました。そして、国も王位も捨て出家して修行者になり、法蔵と名のられたのです。このとき、法蔵菩薩は師となる世自在王仏の光り輝くお姿を讃え、自らも世自在王仏と同じように智慧と慈悲にあふれた仏になりたいという「うた」を述べられました。つまり、そのうたが『讃仏偈』なのです。そして、法蔵菩薩は五劫という長い間、考えに考え抜いて四十八の誓願を建て、不可思議兆載永劫というはてしなく長いあいだ修行して阿弥陀仏となられたのです。『讃仏偈』はこのような流れのなかで示される、「仏さまを讃えるうた」なのです。」(浄土真宗本願寺派 総合研究所 第一回「讃仏偈」①講座)というように、讃えられているのは世自在王仏で讃えているのはのちに阿弥陀仏となる法蔵菩薩であることがわかります。

次に『讃仏偈』に明かされる、世自在王仏の徳を讃える以外の内容についても見てみたいと思います。「光顔巍巍」から「震動大千」までは先に述べた世自在王仏の徳を讃えるところです。

「願我作仏」から「快楽安穏」には法蔵菩薩が自身も世自在王仏のような仏となり、迷いの人々をすべて救いたいという願いが述べられ、「幸仏信明」から「知我心行」では法蔵菩薩が世自在王仏や諸仏に自らの志を認めていただけるよう請い願っています。そして「仮令身止」から「忍終不悔」と結び、法蔵菩薩が求道の決意を述べて締めくくっています。

『讃仏偈』に説かれている「あなたのような仏になりたい」という法蔵菩薩の思いをうけて、専如ご門主は「私たちのちかい」の各々の誓いに「仏さまのように」と結んでおられます。

私たちは『讃仏偈』に明らかにされた、生きとし生けるものすべてを必ず救わずにはおかないという阿弥陀仏の願いに心を寄せて日々を送りたいものです。この『讃仏偈』は節もなく、音程の変化もありません。ゆっくり唱えても五~十分ほどのお勤めです。朝夕にお仏壇に手を合わせるとき、報恩感謝の思いを込めて、お勤めしていただければと思います。そして私たち一人一人から、私たちそれぞれの家庭から、お念仏の声が広く大きく広がっていくことを願い、ご縁を結ばせていただいた皆様と共に人生を送っていく生活を求めていくことが念仏者として大切なことです。    


令和三年 九月