浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

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法話

お浄土

No.664

新しい年を迎えてはや一ヶ月が過ぎました。新しい年を迎えられたことを皆さまと共に感謝させていただき、有り難く受け取らせていただきます。

新年を迎えることをきっかけに私が毎年のように思うのは、朝目が覚め、昼活動し、夜寝るの繰り返しを当たり前のように考えてしまっているということです。

本願寺第八代ご門主の蓮如上人は、御文章というお手紙の中で、「アシタニハ紅顔アッテ 夕ベニハ白骨トナレル身ナリ」(白骨の章) とお諭しくださっています。

朝には元気でも夜には今生での生が終わっていることもある身であるということであります。

自己の死はもちろんのこと他の死もあり、遅かれ早かれ愛しい人とも離れていかなければならないこともあるでしょう。(愛別離苦)

私たちはどこか心の中で生きていることが当たり前で死と向き合うことを避けているように思われます。

死と言うことを意識して生きるということは本当はとても大切な事であります。

私たちは死に対して不安を感じ、また恐怖さえ覚えることでしょう。

このようなお話を聞いたことがあります。冥土のお話です。 冥土とは迷いの世界であり、今生での生を終えるとこの世界に行ってしまう。冥土は真っ暗で杖がないと
歩けません。そして化け物が棲みつき、この化け物と短刀で戦わなければなりません。そしてその先に六体のお地蔵さまがおられ、六文の銭をはらい、舟に乗せてもらって三途の川を渡り、閻魔大王に裁判で裁かれて死後の行き先を決められるというお話です。

昔、古い慣習で棺の中に杖・短刀・六文銭を納めたということがあったのはこのことからでしょう。

このお話から私たちの死後の行き先はどこにあるのか考えてみると、煩悩によって好き勝手に行動してきた私たちはきっと地獄に墜ちるでしょう。

死に直面し、地獄という恐ろしい場所に行かなければならないと知った時、または何処に行くのかもわからない私たちは自らの死を不安に思い、恐怖を感じるでしょう。

だからこそ、そこにお浄土の教えがあります。死に対しての不安・恐怖を受け入れての生き方であります。

お浄土とは一切の煩悩や穢れを離れた仏や菩薩の住む清浄な国土であります。(浄土真宗のご本尊である阿弥陀如来のおられるお浄土は極楽浄土といいます)

月詣りなどでお勤めさせていただいている『仏説阿弥陀経』というお経の中にこの極楽浄土の様子が説かれています。黄金の大地でできており、木々は四宝が埋め尽くされた柵や網で囲まれ、木々にも無数の宝が装飾され、常に清浄に輝いています。七宝の池には「八功徳水」という清らかな水が流れ込み、池の底には金沙が敷き詰められていて四色の蓮華の花が咲き誇っている。そして過ごしやすい気候で、華の雨が降り、素晴らしい音楽が流れてくると説かれています。

私たち浄土真宗では冥土の考え方はありません。お浄土に即座に行かせてもらえるのです。(即得往生)

これは、阿弥陀如来の「生きとし生けるもの全てを必ず浄土に往生させるぞ」とお約束・お誓い・願ってくださったお力(本願力)によりお浄土に行かせてもらえるのです。

阿弥陀如来の本願力と極楽浄土の存在を信じることによって私たちは間違いなくお浄土に行かせてもらえるのです。往生とは、お浄土に往く(行く)ということ、そして還る(帰る)とも表現され、仏に生まれさせていただくことです。

私たちは阿弥陀如来のお約束・お誓い・願いである本願力によって帰る場所を与えていただいているのです。

人生の中で帰る場所あるということは、生きる上で安心を与えていただけます。

人生に安心があると心に余裕も出来るでしょう。その結果、自己を反省したり、他に感謝出来る心が備わってくるのではないでしょうか。

新しい年を迎えるにあたり、本願力を信じ、当たり前から有り難いへの心の変化をさせていただきましょう。

今年も一年、その先も、内省と感謝の気持ちを大切に過ごせるといいですよね。

令和五年二月