浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

ちょっといい話

法話

愚者になる

No.592

三月になると極寒の冬から春へと季節が移り変わり、また受験、卒業、就職、転勤など人生における一つの大きな節目となる時期でもあります。特に受験に於いては、少しでも偏差値の高い学校へ行くことが今後の人生を左右すると云わんばかりにみんな躍起になって勉強します。しかし、実際に社会に出ると受験のために勉強してきたことが直接的に役に立つということは希ではないかと思います。試験はあくまで点数による区分であって、その人を査定するものではないことは誰もが分かっているはずです。それでも、良い学校、良い会社を目指して必死に勉強するのです。本当に必要なのは目標に向かって努力する姿勢であって、結果だけがすべてではありません。もちろん結果がついてくればそれに越したことはありませんが…。

ビートたけしさんがこのように仰っています。『いまの、たった今の時点で努力していない奴らは死ぬときに必ずオロオロするんじゃないのかって思う。それまで何もやってきていないんだから。なにひとつ自分に満足していないんだよね、駄目な奴は。じゃあお前はどうだって言われると、いったい何をしてきたんだろうかって考えると、もう愕然としてくる。強烈なんだ。その問いかけは。どんなに素晴らしい人でも、それは誰にでも当てはめて言えるわけだし、これをしてきたって言える人間はいない。やればやるほど、人間は抜けた部分に気づく。だからやっぱり、人間は自分の目の前にあることを一生懸命やるしかない。』一生懸命努力を重ね、学べば学ぶほど多くの人たちの支えがあることに気づかされ、自分自身を知れば知るほど愚かさに気づかされるのです。ここで言う「愚かさ」とは、学校の成績が悪いとか社会でうだつが上がらないといったことではなく、自己中心的なものの見方しか出来ない、他者のためと言いつつ自分のことを最優先にしてしまうことを愚かだと言うのです。しかし、自分の愚かさを自覚することはなかなかできることではありません。

少しでも自分を良く見せようとしたり、ケンカをすれば自分を正当化したり、自分自身の本当の姿を見つめようとしないのが私たちでありましょう。そんな自分の「愚かさを自覚する」ことで、他者を理解し認めることが出来るようになるのです。人は「バカ」だと自分で言っているうちは笑っていられますが、他者から「バカ」と言われると腹が立つのです。本当に自分がバカだとは思っていないのです。やはり「愚者になる」ことはなかなか難しいものです。
このような人間の本性を見抜き、愚かなまま、煩悩を持ったまま、そのまま救うと願ってくださるのが南無阿弥陀仏であります。南無阿弥陀仏のお慈悲を知らせていただき、「はずかしい、もったいない、ありがとう」という思いが生まれた時、私が「愚者になる」のです。

本当の自分を見つめていく…。簡単そうでなかなか出来ないことです。受験勉強では決して教えてくれない、本当に大切なことを聞かせていただく努力こそ、私たちがしていかなければならないことなのです。お寺でのご法座は、そんな自分に気付かせていただく私の人生にとっての大切な場なのです。