浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

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迷惑

No.640

昨年から続く新型コロナウイルスの感染防止という観点から、不要不急の外出禁止、自粛等で、私たちは今までよりテレビを見る時間が増えました。そんな中でよく終活を考えている老夫婦の会話で「子供達には迷惑はかけたくない」という言葉が聞こえてきます。

親が子供に「迷惑をかけない」というのはどういうことでしょうか。ここで言われている「迷惑」とはおそらく経済的なことを指していると思われます。年配の両親が老後の生活や人生の終わりの際にかかる費用などを子供に頼ることを「迷惑」としているのでしょう。

しかし、子供達はそれを迷惑と考えるのでしょうか。生きていくうえで経済的安定は重要なこではありますが、人生の上ですべての問題が金銭で解決されるわけではありません。

例えば、親が介護サービスなどを受けなければならなくなった事を考えてみますと、対価を支払って介護サービスを受けることは普通に行われていることです。そのことを受けている側は「迷惑をかけているナー」と思うでしょう。

しかし、子供としては人として命をいただき、育ててくれた恩を思い、親に対してそのことを迷惑とは思わずにすることにこそ人間としての尊厳、価値はあるのです。

今は多くの場合、「他人に迷惑をかけないようにしよう」とか「迷惑をかけられた」などと用いられますが、この場合その迷惑は不利益、不快感、不都合などの意味で使われ、特に金銭的な面で語られることが多く見受けられるように思います。

そもそも私たちは人生を生きていく上で多くのいのちに支えられ、助け合って生かされていることに気づくべきでしょう。誰でも迷惑はかけたくない、かけられたくもないと思いながら生きてはいると思います。しかし、迷惑をかけずには生きられない私であり、自分にとって都合の悪い、迷惑と思われることに対しても迷惑を迷惑と受け止めない生き様にこそ本当の人間としての生き方があるのではないでしょうか。

「迷惑」という言葉は実は親鸞聖人もお使いになっています。それは聖人の著述である『教行信証』
の信巻の中で聖人は、阿弥陀如来のお救いをいただく中で厳しく自分を見つめられ、嘘や偽りのない自分の生き様を素直に厳しく告白されたご文の中で語られています。

『阿弥陀如来によって浄土で仏になることが約束されている自分であっても「名利の太山に迷惑して」うれしいとも思わず、快いとも思わない、恥ずかしい、そして悲しい自分である。すなわち、欲望の中に生き、その中に自ら溺れ、自ら没している私自身の浅ましい姿である』と言い、ここでは「迷」は道に迷うこと、「惑」は行き場がなくなり戸惑うこと、すなわち自らが迷い惑っている姿を「迷惑」と仰っています。

私たちが普段使っている「迷惑」との意味は違いますが、仏の教えに出会って初めて至る思いなのではないでしょうか。仏の教えに出遇うことがなければ、自らが迷い戸惑っていることにさえ気づくことなく、自分はもちろん他人をも傷つけてしか生きていけないことにも思いが至らないのです。仏の教えに出遇うことによって、私たちは改めて自分一人だけでは生きていけない、ということを思い知らされるのです。多くの「いのち」が支え合い、助け合って、生かされていることに気づかされた時、「迷惑」を「かける」とか「かけられる」とかという周りとの関係の在り方にこだわるのではなく、今自分ができる事を精一杯務めてこそ豊かな人生を送ることができるのです。

令和三年 三月