浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

ちょっといい話

法話

ひと昔前

No.672

このところ、ひと昔前のことを思い出すことが多くあります。良いことも悪いことも色々ありましたが、何か気持ちが落ち着く事柄をよく思い出します。

幼い頃には周りにたくさんの豊かさがあったように思います。近所のお婆ちゃんのお宅にお菓子を貰いに行くと快く迎えてくれた思い出や、近くの公園で野球やサッカーなどをして遊んだ思い出、友達の自宅にお邪魔して友達のご家族とお話しをしたりと、今とは何か違う楽しみ方や繋がりがあったと感じます。

その他にも、電話は直接相手に繋がらないことは当たり前で、待ち合わせで出会えなかった時なども連絡する手段がありませんでしたが、不便な中でも相手を想う気持ちがありました。いろいろな年間行事にもお正月には餅つきをしたり、十五夜にはすすきや団子を供えたり、大晦日には除夜の鐘が楽しみでありました。お寺の法要も今以上に賑やかで、法事や葬儀にはお斉(食事)が当たり前にあり、ご門徒の方々とのお付き合いも出来る時間を持てたものです。現在は便利な世の中にはなりましたが、何かひと昔前に体感出来た豊かさが感じられない気持ちがあります。

携帯電話やゲームなどの普及、公園でのルールが厳しかったり、不審者が増えたり等の理由で外で遊ぶ子供たちをあまり見かけなくなりました。また、簡単にお邪魔できるお宅なども少なくなりました。

年間行事にも餅つきは手が汚いからという理由で中止されることや、十五夜の団子のお供えは変な習慣ととられ、除夜の鐘は近所迷惑とされることもあると聞きます。お寺の法要でも、聴聞(仏法を聞くこと)する方が減り、淋しい想いをする場面も多くなってきました。ご法話で「生死」のお話を聞くことがあります。生きることと死んでいくことはひとつのもので切り離せないものであるというお話です。

しかし現代では、「生」と「死」を分けて考える、または逆の事柄として捉えられているのではないでしょうか。以前は子供時代であっても人の死と向き合わせる(人の生命を看取る)場面をあえて作っていたようですが、現在多く耳にするのは「死」について考えさせる場面をあえて避ける傾向があるようです。

仏法では、「死」を意識することで「生」の有り難さを感じさせていただけるのです。私たちは死んだ後どうなるのか、何処に行くのかわからないことで、不安や恐怖を感じるのではないでしょうか?

その不安や恐怖から私たちをお救いくださるのが、阿弥陀さまの本願(願い・誓い・約束)であります。

どのようなことかと言いますと、お念仏の教えは臨終の時に、私たちをそのまま必ずお浄土に往生させるぞとお約束くださっているお救いであります。お浄土という清浄の世界に往かせてもらうお約束を聞くと「死」を不安や恐怖として感じなくなるのではないでしょうか。

「死」を考えるからこその安心がそこには生まれます。

私を苦しめる根本である「死」の受け取り方がそのように変わっていくのです。煩悩(欲望、怒り、愚痴)をもち、自らを苦しめている私たちが安心して生きるためにとても必要なことでしょう。

この安心の中で気付かせていただける私たちの生き方は、自己中心的な心を持った「生」を深く反省していくことであります。

互いが自らを反省し合う生き方をすることによって、他を思いやれる有り難い豊かな心が備わることでしょう。

阿弥陀さまと共にひと昔前の豊かさが今にあって欲しいものです。 

令和五年 十月