浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

ちょっといい話

法話

親鸞聖人

No.633

二〇二三(令和五)年に本山では親鸞聖人御誕生八五〇年、立教開宗八〇〇年の慶讃法要が予定されています。 多くの小説や映画などでそのご生涯が伝えられていますが、物語や伝説に基づくものが少なくありません。

聖人が自ら著された詳しい自伝が残されていないことにもよると思われますが、今年は新型コロナ感染症の影響で毎年行われていた当寺の降誕会(聖人のお誕生日の法要)のご案内もできず、そのせいもあってか最近よく聖人についてのご質問を頂きますので残されている史料などを参考にして聖人のご生涯を辿ってみたいと思います。

聖人は一一七三年五月二十一日、今の京都市伏見区にあたる日野の里で生まれました。父は源氏の流れをくむ皇太后宮大進を務めていた日野有範、生母については史実では明らかになってはいませんが、対馬守源義親の娘、吉光女という説が一般的です。幼名を松若丸と言い、四歳で父を、八歳で母を亡くし、九歳の時に伯父の日野範綱に伴われて京都の青蓮院で慈鎮和尚によって得度をされました。

この時、慈鎮和尚に「夜も遅いので明日にでも儀式を行いましょう」と言われて詠んだ幼い聖人の「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」はご存じの方も多いと思います。

出家して名を範宴と称し、常行堂の堂僧として比叡山横川の首楞厳院で二〇年の修業を修めるのですが、なお求める道を見いだすことができませんでした。

一二〇一年、二十九歳の春、一念を発起して百日間の京都市中にある六角堂参籠を志ざします。

九十五日目に聖徳太子の化身である救世観音菩薩の夢のお告げに導かれ、当時六五歳で専修念仏を広めておられた法然上人の門に入ります。以後、聖人は名を綽空、のちに善信と改めて一心に専修念仏の生活を送っていました。一二〇七年二月、専修念仏が禁止され、法然上人は讃岐国(現在の香川県)に流罪となり、聖人も三十五歳で越後(新潟県)国府に流刑に処されます。

法名を剥奪され、藤井善信の俗名を与えられました。しかし、この逆境を転じて非僧非俗の境地を会得し、愚禿親鸞と名乗り、三好為教の娘・恵信尼と家庭を持って六人の子を授かりました。一二一一年十一月に流罪が解かれ(翌年、法然上人往生)、一二一四年に常陸(茨城県)の小島や稲田に草庵を結び、それから二〇年に及ぶ関東での念仏弘通の生活に入るのです。この間一二二四年、五十二歳の時に常陸稲田で浄土真宗の教えをまとめられた『教行信証』を制作し従来、この時をもって立教開宗としていましたが、近年様々な検証の結果、『教行信証』の完成は帰洛後であろうというのが定説になっています。

一二三五年、六十三歳の頃に妻子を伴い京都に戻ります。五条西洞院や三条富小路などに居を構え、著述中心の生活を送ります。この間に『教行信証』を完成させ、和讃など他の主な著述も京都に戻ってからのこの時期に著されています。聖人が関東より京都に戻ったのち、長男(次男の説もあり)の善鸞が関東の教化のために遣わされますが、後の秘事法門へとつながる異義を唱えたり、対立する門弟を排除したりして関東の教団を混乱させました。ここにおいて聖人は一二五六年に断腸の思いで善鸞を義絶して騒動を収めました。幼くして両親を亡くし、比叡山で修業の生活を送り、法然上人の許で専修念仏の教えを請け、越後・関東の教化を果たし、京都に戻ってからは沢山の書物を著すという、九〇年に及ぶ生涯の終焉の地は一二六二年一月十六日、三条富小路にあった聖人の弟・尋有の住まいであった善法坊でした。

東山・延仁寺で荼毘に付され、遺骨は鳥辺野の北に当たる大谷に埋葬されました。その後一二七二年、多くの門弟の願いを受けて、全国の門信徒が力を合わせ、聖人の末娘の覚信尼・禅念夫妻が居住していた吉水の北の地(今の東山知恩院の境内)に六角堂を建立して、遺骨を改葬し、影像とともに安置しました。これが大谷廟堂です。覚信尼は私有地であった敷地を寄進して廟堂・敷地共に門徒の共有としたうえで、廟堂守護の任に当たる留守職を定め、自らがその初代となりました。同時に留守職は血統により受け継がれるべきことを定め、現在の本願寺教団へと発展していくのです。

聖人の波乱に満ちたご生涯はひとえにこの私にお念仏の教えを伝えてくださるためのご苦労であったと気づかせていただくことであります。

令和二年 八月