浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

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法話

門徒もの知らず

No.665

「門徒もの知らず」とは一般的な物事の決まり事やルールを知らないという言葉として使うことが多いと思いますが、本来は「門徒、物忌み知らず」といって、俗信や迷信を気にすることなく生活をしている姿を端から見た人が揶揄する言葉であります。例えば、病院では4や9と言う数字が死や苦を連想させるとして使われなかったり、仏滅には結婚式を挙げない?、友引には葬儀を出さない?等々、科学的な根拠の無いことをあたかも当然と言わんばかりに言うのです。

しかし、大安に結婚式を挙げても離婚をする方もいますし、友引に葬儀を出さなかったところで、人はいずれ必ず死ななければならないのです。

浄土真宗の宗祖・親鸞聖人はこのように仰っています。、

『悲しきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす』

ーお坊さんも俗人も日や時を選び、天の神・地の神を崇め、占いやまじないを務めておられるのが、何と悲しいことよー

当時の浄土真宗の教えを信仰する門徒は、病気や苦しみが重なったとしても占いや祈祷、お守り等に頼ることをしなかったと言います。当時の世相からすると大変な驚きであったのでしょう。

その門徒の姿を揶揄した言葉が「門徒もの知らず」という言葉なのです。

科学がこれほど発達した現代においても毎朝、占いを見て一喜一憂するのです。そんな簡単な方法で占うわけではないのでしょうが、星座占いや誕生月占いと言って、約八十億人もいる人間をたった十二通りに分けるのですから少々無理があるようにも思います。

現代に「物忌み」がこれほど数多く残っているのは「生老病死」という生きとし生けるものの根本的な苦しみが決して変わることがないことを表しているのかも知れません。

お釈迦さまが「一切皆苦」(人生は私の思い通りにならない)という言葉から説法を始めたと云われるように、「生老病死」という「いのちの根本の苦しみ」は私が常に抱えて生きていかなければならない自然の道理なのです。自分にとって都合の悪いことを忌避するあまり、根拠のない俗信や迷信に振り回され、一喜一憂してしまうのですから人間の弱さが垣間見えるようですね。

『歎異抄』に「念仏者は無碍の一道なり」とあります。お念仏を人生の拠り処に生きる人は何ものにも妨げられない道を歩むことができるということです。

親鸞聖人は『一念多念証文』で、「まもるといふは、異学・異見のともがらにやぶられず、別解・別行のものにさへられず、天魔波旬にをかされず、悪鬼・悪神なやますことなしとなり と仰っています。つまり、仏教以外の学問や見方に惑わされることなく、お念仏を称え、自力の心を捨てさった念仏者は、仏教を阻害しようとする悪魔や悪神に妨げられないということです。

「わたしは門徒です」、「浄土真宗です」とは言いながら、神社に初詣に行き、願掛けや厄払いをしたり、占いに一喜一憂し、日の良し悪しや方角が気になる。心当たりはございませんか?

「浄土真宗の教章」の宗風に、
宗門は同信の喜びに結ばれた人びとの同朋教団であって、信者はつねに言行をつつしみ、人道世法を守り、力を合わせて、ひろく世の中にまことのみ法をひろめるように努める。また深く因果の道理をわきまえて、現世祈祷や、まじないを行わず、占いなどの迷信にたよらない。
とあります。この苦しみ多い人生において何を頼りとし、何を拠り所とするかは大切なことです。

浄土真宗は死んだ後の教えではありません。今ここに生きる私自身のための教えです。

「門徒もの知らず」で良いんです。自然の道理をわきまえつつ、自らの姿を仏法に照らし合わせながら俗信・迷信に振り回されることのない「お念仏の道」を歩ませていただきましょう。

令和五年 三月