テレビのコマーシャルで小さなお葬式というのを最近よく見ますが、派手に大きくすることもありませんが、周りの方に知らせないで、家族だけでご葬儀をされたり、お通夜をしないで一日葬で終わったりする方もいらっしゃいます。ここ数年で、コロナの影響もあってか、ご葬儀の簡素化が急速に進んでいます。
高齢化や経済的な理由、人間関係の希薄化などいろいろな原因はあると思いますが、一番の原因は自分の宗教ということにあまりにも無知すぎることだと思います。無宗教という言葉は本来存在しないので使わないようにしていただきたいものです。
先祖代々浄土真宗の門徒さんで、何十年も毎月のご命日には必ずお寺さんに来てもらってお経をいただいているお宅で、お勤めが終わって、失礼ながらも私たちの浄土真宗ってどんな教えかご存知でしょうかとお聞きしました。その方は、ただ親のしてきたことを見様見真似で受け継いできただけで、お恥ずかしいことなんですけど正直何も分からず、ただ亡くなった父や母、ご先祖さまに感謝をし、お寺さんにお経をあげてもらってあちらの世界で安らかに過ごしていただけたら…とずっと思っておりましたと。おそらく同じように思っている方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。
そのお気持ちは大切なことであり否定するものではありませんが、私たち浄土真宗では、阿弥陀さまのおはたらきによって、亡き方やご先祖さまはお浄土に生まれ、仏さまのいのちと成られ、この私に仏法のご縁を導いてくださると考えます。亡き方に対してお経をあげるということではありませんので注意しましょう。
お経やお勤めは、生きている私たちが聞かせていただくものです。仏さまのお言葉をいただき、自分自身が何を感じ、人生をどう歩んで行けばいいのかということを問うていくということが何より大切なことです。
仏法は私たちの人生そのもの、日常なのです。ご葬儀やご法事、ご命日の時だけが仏法なのではありません。
そこでまず私たち仏教徒は、人間として生まれてきたことがどれほどありがたいことかという事を知らなければならないでしょう。人間として生をうけることがとても難しいことの例えとして、お釈迦さまは「盲亀浮木」の譬えをお話しされました。
ある時、お釈迦さまが阿難というお弟子さまに、「そなたは人間に生まれたことをどのように思っているか」と尋ねられました。「大変喜んでおります」と阿難が答えると、「果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀がいる。その盲亀が、百年に一度、海面に顔を出すのだ。広い海には1本の流木が漂っていて、その木の真ん中には、1つの穴があり、浮び上がったとき、ちょうどこの浮木の穴から頭を出すようなことがあるだろうかと」尋ねられました。いつもお側に仕えていた阿難は「そんなことはほとんど考えられません」と答えると、お釈迦さまは「誰でも、そんなことは全くあり得ないと思うだろう。しかし、全くないとは言い切れぬ。人間に生まれるということは、今の例えよりも更にありえぬほど難しいことなのだ」と説かれました。
私たちは、すでに人間に生まれることが出来ており、すでに仏法のご縁にも遇えていることを、何の感動もなく、当たり前のように思ってはいないでしょうか。私たちが人間に生まれたことを本当に喜ぶことが出来るようになるには、仏法に遇えてお聴聞を重ねていく中で初めて気づかされることなのだろうと思います。
様々な出来事を仏法のご縁とさせていただき、これからもお念仏のみ教えを深める中で、喜び多い豊かな実りある人生歩ませていただきたいものです。
二〇二四(令和六年)六月