浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

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No.619

 昨今、様々な事件が多発しています。高齢者の交通事故、通り魔、詐欺、薬物など、想像を超える事件が起こっています。「アクセルとブレーキを踏み間違えた。」「誰でも良かった。」「私は絶対にだまされない。」「やめようと思ってもやめられなかった。」毎日のようにニュースで取り上げられ、感覚が麻痺しているのか、日常茶飯事のことにすら感じてしまいます。その感覚は当事者(被害者・加害者・家族など)ではなく、他人事だからこその感覚でありましょう。

 しかし自らを省みると、「自分は絶対にあのようなひどいことはしない」と言い切れる人がいるでしょうか。親鸞聖人は、「さるべき業縁のもよおさば、いかなる振る舞いもすべし」(『歎異抄』第十三条)と仰っています。もしそうせざるをえない状況に置かれたならば、自分の意思とは関係なく、どんなこともしかねない、どんなに非道なこともやりかねない、という深い自省のお言葉です。

 「業縁」とは、「業」は「行い」を意味しています。インドでは、お釈迦さまが生まれる前から、輪廻思想の中で、善い行いをすれば楽な世界に生じ、悪い行いをすれば苦しみの果があるとする「因果応報」の考え方があり、宿命論的な意味合いが強く、差別的な身分制度の思想的背景になってきました。それに対してお釈迦さまは、物事は一つの原因によって生じるものではなく、多くの原因によって常に移り変わり、固定的で変わらないものはないという「諸行無常」・「諸法無我」の教えを説き、「業」に関する宿命論的な見方を否定され、「縁起」という仏教の根本をお示しくださったのです。

 現在まで、たまたま縁がなかったので罪を犯すことを想像できないだけで、もし、考えも及ばないような状況に追いつめられたり、犯罪を引き起こすような条件がそろってしまったならば、何をしでかすか分からないのが「私」という存在であります。

 近年、犯罪を繰り返す高齢者が増えている傾向にあるようです。犯罪自体は減少しているようですが、高齢者の犯罪が増えているというのです。多種様々な犯罪がありますが、人によっては「出たら入る」を数十回も繰り返すといいます。刑務所に入ったとなれば世間の風当たりも強くなり、家族からも見放され、支援してくれる人も少ない。さらには仕事もままならず、貧困から万引きや無銭飲食、賽銭泥棒など軽微な犯罪に走り、保護者不在で起訴されては、何度も刑務所を出たり入ったりするというのです。

 複雑な思いが交錯する事案ですが、誰であってもそういう状況になれば、何かしらしでかすのだろうと思うと決して他人事ではありません。

 そのような気づきを得たならば、あらゆる事件や事故などに関する被害者への共感はもちろんですが、罪を犯してしまった人への共感も少なからず出てくるのではないでしょうか。異なった性格・能力・資質・境遇の人間が生きているのが現実社会です。怒りや憎しみを増幅させるばかりではなく、被害者・加害者などそれぞれの、あらゆる思いを共感することも必要なことであります。

 私たちは物事の善い、悪いを自分勝手に判断して、人の良し悪しを第三者的に判断してしまいます。親鸞聖人はそんな自己中心的な判断しかできない「私」こそ、逆に他者に誹謗中傷されるようなことをもしてしまうのだと前述のお言葉でお伝えくださっているのでしょう。さらに、このような罪業性を持つ私のあり方を、「いずれの行もおよびがたき身なればとても地獄は一定すみかぞかし」とお示しくださり、そんな私がここにいるからこそ、救わずにおれないという阿弥陀仏のおはたらきがあるのだと気づかせていただくことです。

 「他人事」ではなく、「私事」として物事を見ていく。仏法を依りどころとして、他者の喜びを自らの喜びとし、他者の苦しみを自らの苦しみとするなど、少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指し、精一杯努力させていただくことが、自他ともに心豊かに生きていくことのできる社会を実現するために大切なことなのです。

  令和元年 六月