現代はインターネットが普及し、便利になった一方で、何かあやまちや不祥事を起こせばすぐにネットで炎上して、本人や家族、その関係者までも批判や誹謗中傷の被害を受け、人権侵害に及ぶケースも増えており、社会問題となっています。
そこで思うのは、私たちは、人のことをそこまで批判できるような人間なのかということです。
自分は正しい、あやまちを犯していない「いい人間」だという思い上がりこそが、実は危険なことではないかと思うのです。
浄土真宗の中興の祖として知られる蓮如上人の言葉に、「他人の欠点はよく目につくものだが、自分の欠点にはなかなか気づかないものである」とあります。
蓮如上人は 「一般的には直接自分の前では言わずに陰で悪口を言ったということで腹を立ててしまうが、私はそうは思わない。自分の前で言い難いようであったら、陰でもよい、私の間違っている点や気付かぬ至らぬ点があったら言って欲しい、間接にでも聞いて改めてゆきたい」と言われました。
それは、蓮如上人は、他人の指摘や悪口を「仏さまの声」として受けとめておられたからこそのお言葉であると思います。ただここで注意してほしいのは、蓮如上人は決して陰口や悪口を勧めているのではありません。
私たちは、自分の至らないところを指摘してくれたら有難いと思うこともありますが、実際に人づてに聞いたら、誰がそう言っていたかと真っ先にその人を探して非難し、腹を立てたり落ち込んだりするのではないでしょうか。
どこまでいっても自分はいい人間だと自分自身を都合よく見ようとするのが私の本性なのです。
そして自分は正しいという思いから地獄の世界を作り出し、自分中心の考えによってこの世界を濁らし苦しんでいく生き方をしているのが私たちです。
そんな自己中心的な迷いの中で流転し、その故に一切が苦しみであり、悟りからは程遠い存在を、仏教では、凡夫といいます。
仏教は、決して世間的に偉く立派ないい人間になる教えではありません。自分の愚かさに目覚める教えです。
私たちの浄土真宗のご本尊さま、阿弥陀さまは、そのような凡夫の私こそを救う目当てとされ、悲しみ痛み、我にまかせよ、必ず救うのよび声「なもあみだぶつ」となって、今、私に至り届いてくださっています。
闇は闇を照らすことができないから闇であるように、凡夫は自分の凡夫であることすら知らないから凡夫なのです。その凡夫が凡夫と気づくということは、阿弥陀さまのはたらきによるものであって、それはもうすでに阿弥陀さまのお救いの中にあるということなのです。
浄土真宗は、絶対他力の教えです。
阿弥陀さまのおはたらひとつによって、凡夫の私が凡夫のままで、娑婆の縁が尽きたときお浄土に生まれ、仏にならせていただくのです。
日々の生活の中で私たちは、どんな縁に遇うかわかりません。縁次第でどうなるかもわからない凡夫であるからこそ、他を思いやる心を忘れずに、報恩感謝のお念仏を申させていただく中で、自分の行いを問う歩みを大切にしたいものです。
二〇二五(令和七)年 七月