浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

ちょっといい話

法話

2020

在家仏教

No.611

ご門徒さんから「お寺さんは京都で修行されたのですか? 修行って何年間くらいされるものなんですか?」と聞かれました。一般的にお坊さんというと出家して座禅をしたり、滝に打たれたりと厳しい修行をイメージしますが、それもそのはずで、浄土真宗以外はすべて出家の形をとり、厳しい戒律を守り、修行があります。しかし私たちの浄土真宗だけが絶対他力の教えであり、阿弥陀さまのおはたらき一つによっていのち終わったらすぐさまお浄土に生まれ、仏とならせていただくので修行がありません。

浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、比叡山で二十年間厳しい修行をされました。しかし、その厳しい修行では本当に悟りを開くことが出来ないと山を下り、法然上人のもとでお念仏のみ教えに出遇うのです。

そして聖人は、世俗の中で僧侶として初めて家族を持つことを公にし、民衆と共に誰もが仏となるお念仏の道を歩まれました。厳しい修行の道を歩むことができず、永遠に六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の迷いの世界を生まれ変わり死に変わりし続けなければならない私たちが救われていく道をあきらかにされたのです。それは仏教が世俗化したのではなく、在家生活そのままが仏道となり、厳しい修行の道と同じ尊いお悟りの世界が恵まれていく歩みであります。その中で聖人は、自らを「罪悪深重の凡夫」、「悪性さらに止め難し、心は蛇蝎の如くなり」、「地獄は一定すみかぞかし」と自らの姿を地獄行きの煩悩に泥まみれになった悪人と言われ、とても仏の道を志すような心などはかけらほどもないと言い切っています。それは、世俗的な善人、悪人というのとは全く違います。どんな修行をしても決して自らの力で悟りを開くことができない聖人自身のことであり、私自身のことであります。この私を除いて他に悪人がいるということではありません。

私たちは、自分の都合に沿ういのちは愛おしく、そぐわないいのちは憎く、我執と不満に満ち溢れ、誰もが自分の幸せを願い、自分の楽しみばかりを貪る生き方は、自分自身を苦しめる結果になることも気付くことができません。そして都合が悪くなると「どうせ凡夫だから」といいますが、これは親鸞聖人が最も嫌ったことで、親鸞聖人を傷つけていることなので気をつけなければなりません。私たちの人生に起こるどんな出来事も阿弥陀さまに出遇うためのご縁と受け止めさせていただくことが大切なのです。

私たちは、すでに阿弥陀さまのお慈悲の中で生かされています。慈悲の「慈」とは、常にあたたかく見まもっているという意味で、どれほど背いても決して見捨てず、背くものこそ真っ先に注がれる愛情のことです。「悲」とは涙も出ないほどのかなしさを意味します。私たちは阿弥陀さまから慈しまれているのと同時に深く悲しまれているということもわきまえなければなりません。そんな阿弥陀さまのお心に対し、私たちはただただ頭を垂れ、お念仏申し、御恩報謝につとめさせていただくばかりなのです。

今は便利になり、インターネットで仏教のことやお寺のこと、ご法話も配信され、いつでも見たり聞いたりできます。でも、やはり仏さまのお話はお寺に参って聞かせていただくのが一番です。お寺でしか味わえないことがあります。仏さまのお心は耳で聞くだけではなく、身体全体で聞かせていただくのです。そして、いまこうしてお念仏のみ教えに遇わせて頂けたのは親鸞聖人の命懸けのご苦労があったからこそということを忘れてはなりません。

お寺では、今月の二十二日から三日間にわたり、浄土真宗で最も大切な親鸞聖人の報恩講が勤まります。

どうか皆様お誘いあわせてお参りください。ともにお念仏のみ教えを深めさせていただきましょう。