浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

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法話

あたわりもの

No.671

私たちの暮らしが物質的にどれほど豊かになろうと科学や医学が進歩しどれほど寿命が延びようとも、私たちの根本にある生老病死の苦悩は決してなくなりません。

この世に生まれたからには必ず歳をとり、病気になり、死を迎えなければならないのが私たちの人生です。 若い時はそんなことは考えもしなかったことが年齢を重ねるにつれて身に染みて分かるようになるのではないでしょうか。

お釈迦さまはこの世は諸行無常であり、この世のすべてのことがらは一瞬もとどまることなく変化し続けていくと説かれました。今日の日本では人生100年時代と言われていますが、そうなるとますますお釈迦さまの説かれた生老病死の苦悩と向き合う時間が長くなるということです。

あるお宅でお参りの時にご主人が「戦後豊かになるために一生懸命休みもなく働いてきて、定年になってやっと楽ができると思ったら妻に先立たれてしまってゆっくり旅行にもいけなくなってしまいました。身体もあちこち痛くなってきて人生って思うようにいかんものですね、これもあたわったもんだからどうしようもないことです」 とお話をされていました。

北陸地方の方言で、「あたわり」という言葉があります。浄土真宗のご門徒が多い地方だからこその表現かもしれませんが、特に身近な大切な方が亡くなったときや物事がうまくいかなかったときに「てんでんにあたわったものやさけ」とよく日常で使います。

これは、各人おのおのが良いことも悪いことも如来さまからあたえられたものだからしっかりとその事実を受け入れていかねばならないという意味です。私も小さい頃から祖母や両親からよく聞いて育ちました。

私たちの人生は、試練の連続です。どれだけ避けたいと思っていることも受け入れていかねばならないのが人生というものです。

病気をした時は病気をする、死ぬときは死ぬ、それを受け入れていくことが苦しみから解放される唯一の道であると仏法は説かれています。しかしそう簡単なことではありません。

私たちは片時も執着から離れることができないからです。そんな私が生きている中で救われていく道は仏教の中でも浄土真宗の教えしかないのです。

生死一如、生があたわりものなら病気もあたわりもの、死もあたわりものと受け取って人生において大切な経験をさせていただいているといただくのが浄土真宗の歩みです。

歳をとることは素晴らしいことです。若い時には見えていなかった世界が見えたり、初めて体験することがあったりします。病気だってありがたいことです。病気したからこそ健康のありがたみが分かり、病気で苦しんでいる方に寄り添うことができるのです。死を迎えることも死んで終わりではなく、お浄土という世界に生まれ、仏とならせていただくのです。

私たちは阿弥陀さまのお慈悲の中でこのあたわったいのちを力いっぱい生き、何気ない日常が光り輝く日常へと目覚めていく人生を送らせていただきたいものです。

そしてこれからも、日々の仏法のご縁を大切にし、共に「なもあみだぶつ」と感謝のお念仏を申し、お互いを認め合い、助け合いながらお浄土の道を歩んでまいりましょう。

令和五年 九月