浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

ちょっといい話

法話

君たちが居て、僕が居る

No.649

「ご縁」とは、
人間が作為的につくり出すつながりを意味する言葉ではありません。

それは、すべての物事が互いに関わり合って存在していること、
あらゆる存在が計り知れないほどの昔から関連し合いながら現在にいたっているということです。

ご縁とは、生きる力を再生させる原理となり、利己的なあり方から離れ難い自己への内省を喚起し、根源的な無力さを実感させながら、それだからこそ他者とつながりあっていくあり方を開いていきます。

「ご縁」はお釈迦さまが説かれた仏教の根本の教えである「縁起」のことです。お釈迦さまは人が生まれ、老い、病にかかり、死んでいくという苦しみの原因が、人間の根本的な欲望や愚かさであることに気づかれました。このことは苦しみの原因を時間をさかのぼって観察することで得られた境地であり、元々「縁起」とは、時間的な経過の中での原因と結果の関係を意味していました。しかし現在ではあらゆる存在は他との関係の中で存在しているということを意味するようにもなっています。つまり、「縁起」とは全世界のあらゆるものが時間的にも、また相互関係としても結びつき合って存在しており、個別に単独で存在しているものはないという、真実のあり方を教えてくれているのです。

日本に仏教が伝来して以来、「お互いに関連し合う」という縁起の教えが大切にされ、そのことが「縁」に「ご」をつけて「ご縁」という表現になりその後、「ご縁」という言葉が日常的に用いられるようになったと云われています。

親鸞聖人も「教行信証」 総序に「遠く宿縁を慶べ」と述べられました。阿弥陀仏のご本願を信じ、お念仏を申す身になったのは、親鸞聖人ご自身の力によるものではなく、はるか遠い過去からの因縁があってのめぐり遇いであり、真実の教えに出遇うべく阿弥陀仏に願われ続けてきたという大きな因縁を知り、
その因縁の不思議さと感動と共に、深い慶びを表わされた言葉であります。こうして真実の教えに出遇うことができたことも、いまこの時より以前のすべての「ご縁」と慶ばれたのです。

吉本新喜劇で長年ご活躍をされ、今年4月18日に78歳で亡くなられたチャーリー浜さんのギャグの一つに、「君たちが居て、僕が居る」と言うギャグがありますが、これこそ縁起の根本とも言えます。

私たちは一人では生きていくことはできません。自然の恵みや社会、家族や友人など、あらゆる恩恵をいただいて生かされているのです。「君たちが居て、僕が居る」とは、まさに、「私を私たらしめている、目には見えない様々な関係性に気づいている」ということ、つまり、自分のいのちが様々なご縁で「生かされている」ことに気づいているということでしょう。

『阿含経』に「これあるゆえにかれあり、これ起こるゆえにかれ起こる、これ無きゆえにかれ無く、これ滅するゆえにかれ滅す」とあります。

例えば、チューリップの花はその球根から咲きます。球根が原因(因)で花は結果(果)となります。

しかし、球根だけでは花は咲きません。温度、土、水、肥料、日光、手入れなど、様々な条件(縁)が球根にはたらいて花は咲くのです。このように、全ての事物は必ずそれを生んだ因と縁とがあり、それを因縁生起(縁起)と言い、因と縁と果が複雑に関係し、影響し合って、もちつもたれつの状態をつくっているのです。よく「縁起が良い、悪い」と言いますが、本来は、他のあらゆるものの力、恵み、おかげさまのはたらきを受けて私が生かされているという、仏教の基本的な教えが「縁起」なのです。

ご縁の中に生かされていることに気づかせていただき、誰もが心豊かに生きることのできる社会をめざしていきたいものです。   

令和三年 十二月