浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

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2020

今年の漢字

No.625

毎年十二月には「今年の世相を漢字一字で表すと?」と言って、「今年の漢字」が清水寺で発表されます。一九九五(平成七)年に始まったことですが、皆さん覚えていますか?

一九九五年と言えば、阪神淡路大震災が起こった年でしたので「震」という字が選ばれました。その翌年は食中毒などの被害が多く出たことから「食」、和歌山毒物カレー事件などの年は「毒」、新潟中越地震や新潟福島豪雨の年は「災」、ちなみに昨年も西日本豪雨や大阪北部地震、北海道胆振東部地震など自然災害が多かったことから「災」という字が選ばれました。

皆さんは自分自身の人生を振り返ってみて、どのような漢字が思い浮かびますか? 考えれば考えるほど、何が何だか分からなくなってしまいますが、現状では「迷」、「悩」、「疲」などでしょうか。温泉に行きたいと思えば「癒」、お腹が空いたら「食」、眠たい時には「寝」など、その時によってコロコロ変わるのが正直なところでしょうし、とてもじゃないけど漢字一字には収まらないのが人生かも知れません。

親鸞聖人はその漢字にとてもこだわりの強い方だったと云われます。「親鸞」という名前も七高僧の天親菩薩の「親」、曇鸞大師の「鸞」の字をいただいたものと良く言われます。

では、もし親鸞聖人にご自身を表す漢字一字を尋ねられたら何とお答えになられたでしょうか?

『教行信証』には「愚禿釈親鸞」、「愚禿親鸞」と言う言葉が出てきます。建永二年(一二〇七)年、念仏停止の宣旨を受け、親鸞聖人は越後に流罪になられましたが、『教行信証』の最後に「禿の字を用いて姓とした」と述べてられています。「禿」は外見は僧の姿であっても心と行いにおいては俗人と少しも変わらない、あさましい人間であるということを示しています。さらに、その上に「愚」の字を付け加えたところに深く自己を見つめられ、内省していたことがうかがい知れます。

愚か者になるとは、「私の中には本当に頼りになるものは何もない。私のいのちは計り知れない多くのご縁に支えられ生かされているいのちであり、生きているのではなく生かされているいのちなのだ」と深く頷くことができるようになるということです。

親鸞聖人が八十三歳の時に著された『愚禿鈔』に、
「賢者の信を聞きて愚禿が心を顕す。賢者の信は内は賢にして外は愚なり。愚禿が心は内は愚にして外は賢なり」と書かれています。私の心は内には愚者の心をもっているが、外面は賢く装っていると言うことです。誰でも外見は良く見られるよう振る舞いますが、内には誰もが「愚」の心を持っているのではないでしょうか。

仏法に遇い、阿弥陀仏のお救いをお聴かせいただくということは、自分自身の本当の姿が見えてくるということであります。限りない阿弥陀仏の光に照らされて自分自身の愚かさに気づかされるということでありましょう。そして、このお言葉はまた、阿弥陀仏に救われる身であることをよろこぶ、感謝の想いが詰まっているようにも感じます。

私たちはいつでも自分が「正義」であり、少しでも違えば「悪」と捉えてしまいます。ケンカをするのも悪口を言うのも、もっと言えば戦争さえもちょっとした考え方の違いや価値観の違いなどが原因と言えます。 自分が正義である限り他を認めることなどできません。もちろん、そこに感謝の心が芽生えるはずもありません。

親鸞聖人が自らを「愚禿」と名乗られ、「自分ほど愚かな人はいない」と仰ったのはご自身が多くのご縁に支えられて生きているという真実の姿を見つめ、迷惑をかけ通しの私であったとお気づきになられてこその「愚禿」なのでしょう。

正義を振りかざして他を責めるのではいつまでも争いは尽きません。他を敬い、違いを認めていくことが親鸞聖人のお心にかなった心豊かに生きていく社会をめざす念仏者の生き方であります。


令和元年 十二月