浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

ちょっといい話

法話

ご縁の中で

No.618

私たちが普段使っている日本語の中で海外の方からすると不思議な言い回しがたくさんあるようです。中でも「ごはんができたよ」とか「お茶が入ったよ」などと、「私」という主語がないためにごはんが勝手に出来たの?、お茶が勝手に湯吞みに入ったの?、と理解に苦しむそうです。英語でいうと「私はあなたのためにご飯を作ったよ」、「私はあなたのためにお茶を入れたよ」となり、すぐに理解できますが、日本では自分を言い立てないことで相手を敬うという文化から主語を省くことがよくあります。

また、結婚の挨拶においても「私たちはこの度結婚することになりました」という表現をよくします。結婚しようと決めたのは二人なので「私たちはこの度結婚することにしました」でもいいのですが、二人の意思を表に出さず、いろいろな方のおかげやご縁に感謝するという考え方は仏教の縁起の教えに由来しています。

お釈迦さまの説かれた縁起とは因縁生起の略で、ものごとには原因があり、縁が作用して結果が起こるということです。つまり、すべてのものはお互いに深く関わりあっており、単独で存在するものはないという法則のことです。そして、お釈迦さまは「縁起を見るものは法を見る、法を見るものは縁起を見る」と経典に示され、縁起とはさとりそのものであると説かれました。

日本では、6世紀に仏教が伝わって以来、縁起の教えを大切にして「縁」に尊敬の「ご」をつけて「ご縁」として感謝の気持ちを表す言葉になりました。

「袖振り合うも多生の縁」という言葉があります。着物の袖が軽く触れあったくらいの関係であっても「多生の縁」、つまり幾度となく生まれかわる中での尊いご縁という意味です。今日皆さんにお会いできたのも遠い過去からのはかり知ることのできない縁が重なってのことなのです。

しかし、私たちは忙しい日々を過ごしている中でそのように思うことはなかなかできないものです。

人を見た目で判断し、自分の都合で良い人、悪い人だと勝手に決めつけていないでしょうか。また、家族や友人といった親しい間柄であればあるほど、会うのが当たり前になってしまい挨拶も儀礼的になってしまいます。しかし挨拶の中に、「今日も会うことができたね」という喜びと感謝の意味が隠されていることを忘れてはいけません。

仏教徒の多いインドやネパールでは必ず手を合わせてお辞儀をして「ナマステ」と挨拶します。「ナマス」は南無阿弥陀仏の「南無」に相当し、帰依するとか感謝するという相手を尊敬する意味で、「テ」はあなたという意味があり、すべてに感謝しますという意味です。インドではお互いに助け合うことが当たり前なので、特にありがとうというお礼の挨拶はなく、ナマステはおはよう、こんにちは、おやすみ、ありがとうといったいろいろな挨拶に対して使います。

世の中、便利になればなるほど私たちは忙しくなります。便利になればそれだけゆっくりできる時間が増えると思いがちですがそうではありません。一つの仕事の速度が上がればそれだけ仕事の量が増えます。最近、社会問題になっていますが、コンビニは24時間営業のために人手が足りなく、多岐にわたる業務内容のために店員の負担が増えるのはもちろん、その店に商品を運ぶ人、その商品を作る人、またその家族とすべてが忙しくなるのは目に見えています。あまり便利さばかり求めるのも考えなくてはいけないでしょう。

私たちは、自分のことばかりに目を向けがちですが、目に見えない多くのいのちの関わり合いの中で支えられ、願われて生かされているということに気付いていくことが大切です。それは、小さな頃から手を合わせる大人の姿を見て育まれるものだと思います。合掌は両手でご恩のすべてを頂戴する姿であり、人間のできる一番美しい姿なのです。

 令和元年 五月