浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

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正義

No.669

五百年以上前の室町時代、戦乱の時代を生きた本願寺第八代蓮如上人は、その生涯をかけて親鸞聖人の教えを「御文章」をはじめ様々な工夫を以て精力的に教化活動し、本願寺教団の再興を成し遂げたことから「中興の祖」とも言われています。その蓮如上人やその門弟の言行がまとめられた『蓮如上人御一代記聞書』には浄土真宗の教えや心得が書かれていますが、次のようなお言葉があります。

たとい正義たりとも、しげからんことをば、停止すべき由候う。

ここで言う「正義」とは正しい教えを意味します。つまり、「たとえ正しい教えであっても、それに固執して大きな声で繰り返すようなことは慎むべきである」と述べられているのです。

私たちは自分が正しいとか、良いと思ったことをいつの間にか自分だけの「正義」として振りかざし、その正しさを人に押しつけようとしてしまうことがあります。皆さんも親や先生にくどくど説教されたり指導されてうんざりした経験はないでしょうか? それは親や先生の伝えようとしていることが「親や先生だけの正義」としてその人を支える権威となってしまい、反論のしようもなく、聞かされているこちら側はうんざりと感じてしまったのかも知れません。

詩人・吉野 弘さんの詩、『「止」戯歌』という詩があります。

「正」は「一」と「止」から出来ています。信念の独走を「一度、思い止まる」のが「正」ということでしょうか。
正しさを振りかざす御仁ほど自分を顧みようとする資質を欠いているようです。

正義漢がふえると揉め事もふえるのはそのためです。本来、正義とは握りしめた「自分だけの正義」の暴走を立ち止まらせ、「自分は正しい」、「自分はわかっている」という無自覚を呼び覚ますもののはずです。 どこまでも「正義」に立とうとしてしまう私たちの有り様を内省し、一度立ち止まることが大切なことなのかも知れません。

もし、誰もが「自分だけの正義」で暴走し立ち止まることをしなければ「歪んだ」世界になってしまいます。 吉野 弘さんの詩を真似るのであれば、「歪」は「不」と「一」と「止」から出来ています。一度立ち止まることをせず、そのまま突き進むのであれば世界はどんどん歪んでいくでしょう。

現在のロシア、ウクライナの争いも、お互いが「自分の正義」を主張すればなかなか終わりは見えてきません。国際社会の中で各国がその立ち位置を確立することは重要なことかも知れませんが、それ以上に人やいのちとしっかりと向き合っていくことが大切なことではないかと思います。

本来、誰のモノでもないこの地球や資源、そしてあらゆるいのち。様々なちがいを認め合い、許し合っていくことが必要なことではないかと思うのです。

吉野 弘さんはまた、「祝婚歌」という詩の中で、

 「互いに非難することがあっても 非難できる資格が自分にあったかどうか
 あとで 疑わしくなるほうがいい
 正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい

正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと気付いているほうがいい」とも仰っています。

自分だけが正しいと思っている私が仏法を拠り所とした、仏さまの眼差しで物事を見ていくことが大切なことなのです。

令和五年 七月