国内では新型コロナウイルスのワクチン接種が進み、治療薬の投与も開始されていますが、まだ当分は感染防止に心がけてのマスク生活は続くでしょう。
自粛生活が続くと、コロナ疲れから心身に不調をきたす人も増えていると言いますので気を付けなければなりません。お参りにうかがった時に皆さんからのお話で、外出が減ったことによって筋力が低下したとか、人と会えないのでなんだか寂しいといわれる方が多くいらっしゃいます。
施設や病院にいる家族や離れて暮らす子供や孫となかなか会えなかったり、趣味の集まりも休みなので友達や知人とも会うことができなかったりと、孤立感がさらに増す恐れもあるので電話やメールなども使って心のつながりは大切にしたいものです。
そう考えますと私たち人間は常に人と触れあうこととか、人と出遇うという場をずっと求めているといえるのかもしれません。そして、人間は人との関りの中でさまざまなことを学び、成長し、その中でいろいろなことを伝えあってきたのではないでしょうか。
私事ではありますが、恥ずかしながらコロナ前は親不孝なことに何か用事があるときくらいしか親とは連絡を取っていませんでした。しかし、今は数日おきですが親と連絡を取るようになりました。 これもコロナのおかげとまではいいませんが、コロナがあったからこそだと思っています。
また、お葬式やご法事は家族だけで行われる形が多く、少し寂しさはありますが、コロナを理由に仏事ごとを簡素化していくのではなく、コロナがあったからこそ私たちは仏法のご縁を大切にし、後世に伝えていかなければなりません。
仏教では、人間に生まれてくることはとても難しいことであり、仏法に出遇うことはさらに難しいことと説かれています。私たちはいま人間として生まれ、仏法に出遇い、「なんまんだぶつ」とお念仏を申させていただいております。それは、自分の思いをはるかに超えて、阿弥陀さまの方から出遇って下さっているということなのです。
浄土真宗とは一言で言えば、阿弥陀さまと出遇うということです。阿弥陀さまとはどんなことがあっても決して見捨てず、逃げる私をどこまでも追いかけてつかまえてくださる仏さまです。
これについて島根県の念仏者・妙好人と言われる浅原才市さんは次のようにおっしゃられています。 才市さんの言葉をいくつか紹介したいと思います。「なもあみだぶつに抱き取られ 取られて申すなもあみだぶつ」、「称えても 称えても また称えても 弥陀の呼び声なもあみだぶつ」、「名号はわしが称えるじゃない わしにひびいてなもあみだぶつ」、「わたしや、あなたに、をがまれて たすかってくれと、をがまれて ごおんうれしや、なもあみだぶつ」 と。
私たちは普段お仏壇の前で「なんまんだぶつ」と阿弥陀さまを拝んでいますが、才市さんは「自分は阿弥陀さまに拝まれている」とまでおっしゃられています。この私はどこまでいっても阿弥陀さまの願いの中に生かされているということであります。
私たちがつい思うのは、私がここにいて向こう側に阿弥陀さまがいると対照的にとらえ、仏さまにどうか救ってくださいとお願いをするのがお念仏ではないかと考えてしまいますが、それが悪いとか、間違いということではなく、そんな私だからこそ阿弥陀さまは放ってはおかないぞといつも私をよび続けて下さっているおはたらきに感謝を申すのが浄土真宗のお念仏なのです。
当寺では、今年は10月24日の午後2時より報恩講が営まれます。報恩講とは恩に報いる集まりのことで、本願寺派では毎年親鸞聖人のご命日である1月16日の前に各寺で執り行われます。
親鸞聖人との出遇い、そして阿弥陀さまとの出遇いに感謝し、阿弥陀さまの願いの中で、共に自らのあり方や生き方について今一度尋ね、考えさせていただきたいものです。
令和三年 十月