浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

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法話

白黒思考

No.688

最近、様々な問題を抱えながら生活を送っている人の話を耳にすることがあります。

その中でも他人とうまく付き合うことができない、という悩みがよく聞かれます。

いろいろな原因があるのでしょうが、その解決の糸口として「白黒思考」という考えがあります。「白黒思考」とは物事を二者択一的に考えることです。「0か100か」、「正解か不正解か」。 例えばテストは100点でなければ失敗。99点では意味がないという考えです。

このような思いは、完璧主義者、自己肯定感の低い人、自他に厳しい人などに現れがちだといわれています。このような思いにとらわれるのは、厳格な家庭環境や、常に正解を求められる学校教育などの幼少期の影響、自閉スペクトラム症などの発達障害などが原因と考えられています。

他人とうまく付き合えない人は人を二者択一で捉えている場合が多いのではないでしょうか。 人は様々な要素でできています。例えば、「白黒思考」にとらわれている人は、どんなに好ましいと思う人でも、一つでも自分の想いにそぐわないところがあるとつきあうことが困難になってしまいます。たくさん良いところがあっても、いろんな場面で好きなところがあっても、些細なことで違和感を持つと、その人の全てを受け入れられなくなってしまいます。

日常生活を送るうえでは、大変な思いを抱えていることと思います。

一方「白黒思考」にとらわれない人は、他人の良いところ・悪いところ、好きなところ・嫌いなところなどを受け入れながら上手に付き合っていきます。他人のたくさんの要素の白・黒をまとめて、あの人のここは好きだけどあそこは嫌いということを、全体としてまとめて受け入れているのです。

浄土真宗七高僧の第四祖、中国の道綽禅師は『安楽集』を著す中で、自らの時代を五濁悪世で自分の努力によって仏道を極める人はいない末法ととらえています。

末法の時代において成仏する道を探る中で、日頃私たちが親しくお勤めさせていただいている『正信偈』にも「道綽禅師あきらかに 聖道浄土の門わかち 自力の善をおとしめて 他力の行をすすめつつ 信と不信をねんごろに 末の世かけておしえます 一生悪を造るとも 

弘誓に値いて救わるる」とあるように聖浄二門判に行きつき、末法の人が浄土門によって救われることをあかされます。聖道門は自力による往生です。その中心は、たくさんの戒律をすべて守り抜き、様々な修行を成し遂げることです。戒律の中の一つでも守ることが出来なければ、ほかの全てを守っていても、意味がなくなってしまいます。つらい修行を成し遂げていっても、一つでも失敗すると、未完成となってしまうのです。

親鸞聖人もまた自身が生きる時代を末法の時代ととらえ、この時代を生きる人々が往生する道を、他力によって往生する浄土門とお示しくださいました。阿弥陀仏は、決められたことは守っていきたいと思いながらも守り切れない私、行いを慎んでいきたいと思いながらも、ついつい目先の損得にとらわれて意に染まない行動を行ってしまう私を、煩悩具足そのままで救うぞと、丸ごと受け入れてお救いくださると誓われました。このお誓いにこそ「白黒思考」に捉われていては救われるはずのない私を、つまり自力聖道門の教えでは救われない私を、お浄土に導く道が明かされているのではないでしょうか。

二〇二五(令和七)年 二月