毎月のご命日のお参りでは大切な亡き方の大きく、深い願いを聞かせていただき、感謝のお勤めをさせていただいております。
浄土真宗のお参りはどこまでいっても報恩感謝、報恩謝徳のお参りであります。
亡き方やご先祖様は私が思う何倍も何十倍も私たちのことを心配し、願ってくださっています。
寂しい思いをして過ごしていないだろうか、周りの人と仲良くしてみんなに助けてもらっているだろうか、身体も年々思うようにならないだろうけど自暴自棄にならずに頑張ってやってくれているだろうか、先々の不安に苛まれ、今を精一杯生きてくれているだろうかと。
大切な亡き方はどこまで行ってもこの私のことを心配し、思ってくださっていることに私たちは、ありがとうございますと感謝させていただくのであります。
浄土真宗のご本尊・阿弥陀さまのお姿はずっと立っておられます。それは私のことが心配で心配でしかたがないというお心を表現してくださっているのです。私が悲しくて涙を流しているときも、腹を立てているときも、嬉しくて有頂天になっているときも、いつも私を心配してくださっておられるのです。
お参りに伺ったあるお宅でご年配のご婦人がこう言われていました。
「いま平穏無事に過ごさせていただいているのも、亡き主人のおかげであり、ご先祖様のおかげであります。なので毎日お仏壇に向かって手を合わせてありがとうございますとお参りさせていただいております。お寺さんこれでいいのですよね?」と。
おかげさまという心でお参りされているということは非常に素晴らしいことです。でもその時、私がふと思ったのは今の生活がままならない状況になったときも同じおかげさまですとお参りすることができるのだろうかということです。
私たちは、自分の思い通りになっているときはおかげさまといいますが、思い通りにならないときにはなかなかおかげさまという心にならないのではないものです。
私たちの人生はひとつの困難が解決したと思えばまた次から次とさまざまな困難がやってくるものです。今日の日本では宗教が家内安全、商売繫盛、無病息災、学業成就など私たちの願いを叶えてくれるもののように思われていますが、それは大きな誤りです。
昔から仏教では「仏法に学ぶ」という表現を大切にしています。
仏法に学ぶということは、教えを通して自分の姿が明らかにされていくということです。
お念仏のみ教えに出遇い、そこから知らされていく私の姿は、「いずれの行もおよびがたき身
(凡夫)」ということなのです。凡夫とは自分中心にしか物事を見ることができず、我執にとらわれ、自ら悟りを開くことなど到底できない私ということなのです。
よく浄土真宗では、そのままの救いといわれますが、決してそのままでいいといっているのではありません。阿弥陀さまはそのままのわたしでは救われようがなく、自ら地獄という世界をつくり自ら落ちていく私を心配でならない、だからこそ阿弥陀さまは放ってはおかないぞ、あなたと共に歩むぞと、いつでも、どこでも、どのような状態でも常にこの私にはたらき続けてくださっておられるということであって、けっして自ら凡夫だからと煩悩のままに生きていいということではありません。
私たちは、どんな時も、ひとりひとりにはたらきかけられている大きな深い願いを聞き、ありがとうございます、もったいないことですと感謝の心と謙虚な気持ちで手を合わせ、これからもお念仏申す日暮らしをさせていただきたいものです。
令和五年 五月