浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

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お仏壇

No.606

日本のお仏壇は、日本書紀に、「詔して諸国家毎に仏舍を作り、乃ち仏像及び経を置き、以て礼拝供養せしむとのたまふ」とあり、天武天皇の時代、六八五年頃から始まると言われています。

しかし、これは貴族や有力氏族の間でのことであって、一般民衆の間にお仏壇が安置され、仏教が信仰されていたのではありません。一般民衆の家にお仏壇が安置されるようになったのは江戸時代で、その背景にはキリスト教徒への弾圧がありました。江戸幕府がキリスト教禁止令を出し、キリスト教徒ではないと証明するため各家庭が寺院の檀家となり、「家の宗教」として仏教が確立し、一般家庭にお仏壇が安置される契機となりました。

しかし今、檀家制度の中で生まれた仏教信仰やお仏壇、またお墓などは時代と共に崩壊しつつあります。経済至上主義の世の中で、限りない欲望を実現していくことが目的となってしまった現代、本来は家の中で培われてきたはずの宗教心が伝わりづらくなっているのは明らかです。

最近は、現代仏壇という西洋風な家具調のものも多く見られるようになってきましたが、そもそもお仏壇を持たない家庭が多いのも事実であります。「うちはまだ亡くなった人がいないから…。」「お仏壇は本家が守ってるから…。」と言い、あたかもお仏壇が亡き方の住居のように考えられているようにも思います。しかし、この世の中にご先祖が亡くなったことがないという方がいらっしゃるでしょうか?

また、本家筋というならどの時代まで遡れば良いのでしょうか? お仏壇は決して亡き方が入る場所でもなければ人任せにするものでもありません。私が手を合わせる場所として、心の拠り所としてお仏壇があり、浄土真宗で言うならば、阿弥陀仏のお救いをお聴かせいただく場所として各家庭にご安置するべきものなのです。一昔前は長男は家のお仏壇を引き継ぎ、次男や三男といったいわゆる別家には親が必ずお仏壇を用意し、持たせたと言います。

現代は信仰の自由という観点からも夫婦で信仰が異なったり、また親子でも異なる信仰を持っていることもあります。先述の「家の宗教」ということからすると不自然なことになりますが、核家族化、さらには個家族化が進む中では必然なのかも知れません。逆に、この事実は「家庭で宗教教育がなされていない」とも言えます。宗教とは何か? 信仰とは何か? そう子どもに聞かれてすぐにお答えできる人は少ないように感じます。自分の欲望を満たしてくれるのが宗教ではありません。人を勧誘して強要させるのが信仰ではありません。一言で言えば、思い通りにならないことに気づかせてくれるのが宗教であり、思い通りにならない中で自分自身に何ができるのかを問いながら生きることが信仰であります。

しっかりとした宗教を信仰する家庭に育った子どもは、親や祖父母の姿を見てその生き方を自然と身につけることでしょう。その家庭における宗教教育の中にいのちの尊さを知り、思い通りにならない現実を見つめ、自らのいのちの行方に思いを馳せる生き方ができるようになるのだと思います。

何でも思い通りにしようと、わがままで理不尽な事件が多発しています。思い通りにならなければ人を傷つけ、家族さえも騙し、殺めてしまうのです。逆にみんながみんな思い通りになるのであれば、それはそれで大変なことです。友達とケンカして「あんな奴、いなくなればいいのに…。」と思ったら、その友達がいなくなる。宝くじを買った人がみんな大当たり! そんなはずはないのです。思い通りにならないからこそ、痛み、悲しみ、無力さを知り、また優しさ、温もりに触れ、本当に頼るべきものが何であったかに気づかされるのです。お仏壇の前に座り、南無阿弥陀仏と向かい合い、自らの姿を省みるとき、苦悩の原因を他に押しつけ、欲望を実現しようともがく自分がいることに気づかされるのです。