浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

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親鸞聖人

No.666

今年は親鸞聖人の生誕850年に当たります。京都の西本願寺では記念の慶讃法要が3月29日から5月21日まで5期30日間にわたって執り行われます。当寺でも5月17日にこのご縁に参詣させていただくこととなり皆様にもご案内をさせていただきましたが、ご都合のつく方は是非ご参加をお待ちしています。

聖人のご生涯につきましてはお説教をはじめ、たくさんの書物や報恩講の時に拝読される

御伝鈔などでご承知の方も多いと思いますが、改めてこの機会に振り返ってみたいと思います。

聖人は平安時代1173年新暦の5月21日、京都の南郊、日野(現、京都市伏見区)で父・日野有範、諸説はあるが母・吉光尼のもとに誕生し、幼名を松若丸と称しました。

平安から鎌倉にかけては日本の政治が大きく変遷する時代で、政治の中心が朝廷から武家の手に移ってゆく混乱の時でした。加えて疫病が流行し、天変地異が度重なりました。

人々は末法の世への突入を実感していました。末法思想とは悟りを得られる者はなく、釈尊の教えだけが形がい化してかろうじて残っている今の世の時代ととらえる考え方です。このような混乱の中で父の日野有範は藤原氏と平氏の権力闘争に巻き込まれ、職を辞して出家したとか亡くなったとされています。

聖人は9歳の春、天台宗の慈円和上(慈鎮和尚とも言い、後の天台座主)のもと青蓮院にて得度し、範宴と名を変えて比叡山に上ります。この得度の時、慈円和上が「今日はもう日も暮れてしまったので、得度は明日の朝にしよう」というのに対し、松若丸は「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」と和歌を詠み、その日のうちに得度を受けたと伝えられています。

比叡山では堂僧という身分で、資力に乏しいがゆえに修学に専念することがかなわず、仏事を勤める傍ら勉学に励むという生活でした。20間年の修行と学問を経てもなお、生死解脱の道は見つからず、29歳の春、今の京都市中京区にある六角堂への百箇日の参籠を決意します。

95日目に久世菩薩のお告げに導かれ、東山吉水の法然上人のもとへ百日間通うこととなります。 ここで初めて他力念仏の教えに出逢い、比叡山では満たされなかった心の大転換を体験するのでした。このことは後に、「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉(1201年)、雑業を棄てて本願に帰す」(『教行信証』後序)と、深い感慨を込めて述べられています。またこのころから、綽空とともに善信坊とも称すようになりました。

こののち法然上人の著述である『選択本願念仏集』の書写を許され、1205年、33歳の時に名を親鸞と改めます。生涯に於いて最良の日々を過ごして2年余り、以前よりくすぶっていた専修念仏停止の宣旨が下り、法然上人は四国、聖人は35歳にして越後に流罪となります。この流罪によって僧の身分は剥奪され、還俗を機縁として恵信尼を娶り、僧に非ず、俗に非ずとの想いより愚禿と称すようになります。

この地で大地を耕し、恵まれた子供中心の質素で穏やかな生活を送ったのち赦免され、越後から関東へ移ります。関東に移ってからは積極的に伝道に励み52歳の時、常陸稲田にて浄土真宗の教えをまとめられた『教行信証』ー(正式には「顕浄土真実教行証文類」)の草案が整います(完成は帰洛以後説が有力)。後にこの年を浄土真宗が誕生した立教開宗の年と定められました。

くしくもこの年は法然上人の13回忌に当たり 聖人の娘の覚信尼が誕生した年でもあります。

聖人63歳の時、北陸から覚信尼のみを伴い帰洛を決意し以後、多くの著述を残し、1263年1月16日、弟の尋有の住まいであった現、京都市右京区の善法坊にて90歳で遷化されたとされています。 親鸞聖人がそのご生涯をかけてお示しくださった阿弥陀様の願いによって私たちが等しく救われていくみ教えを、今一度ありがたく頂戴し、次の世代へと伝えていくことの大切さに改めて思いをいたすことであります。

令和五年四月