浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

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法話

阿弥陀仏の願い

No.630

先日、テレビで神社やお寺を訪ね、その周辺を散策して地域の皆様から願い事などを聞いて神社やお寺に届けるという番組を見かけました。町ですれ違う人たちから話を聞いたり、面白そうなお店に入り、話を聞きながら時にはそこの名物料理をいただいたりしながら願い事を聞き出すなど、なかなか面白い内容でした。短冊に書いてもらった願い事を神社やお寺に持って帰ってお勤めをしてもらうのですが、このような日常的な私たちの願い事をかなえることが仏教の本当の目的でしょうか。

仏教の教えが本当に目指すものは私たち一人一人が仏の悟りを得ることです。

そのためにお釈迦さまは八万四千もの教えを残されたといわれています。その多くの教えの中から自らの思いによって拠り所とする経典を選び出し、一派を立てられたのが宗派の開祖であり、今に伝わっている仏教の各宗派です。仏教の宗派は龍樹菩薩の難行道と易行道、曇鸞大師の自力と他力、道綽禅師の聖道門と浄土門という考え方で分けることができます。

私たちが親しく接している『正信偈』には、難易二道について「顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽」、自力他力について「往還廻向由他力 正定之因唯信心」、
聖浄二門について「道綽決聖道難證  唯明浄土可通入」と示されています。

難行道は苦しい陸路のようなもの、易行道はたやすい船旅のようなもの。お浄土にうまれるすべては他力によること。聖道門の教えによって悟るのは難しく、ただ浄土門の教えによってのみ悟ることができること。このように親鸞聖人は大分された仏教のうち易行道・他力・浄土門の立場を選び取られました。


この思いの根底にあるのは末法思想です。

正法・像法・末法の三時思想はお釈迦さまが入滅されてから時代の移り変わりとともに仏教が衰えていくという考え方です。いろいろな説がありますが、

正法=入滅後五百年、お釈迦さまの教えと行と悟りが正しく伝わている時代。

像法=次の千年、教えと行は伝わっているが悟る人がいない時代。

末法=次の一万年、教えは残るが、行は伝わらず悟る人もいない時代。
ーというのです。


聖人在世の鎌倉時代はまさに末法の時代であり、普通の人が自らの努力を積み上げて仏の悟りに至ることは大変困難なものでした。このような時代に全ての人々が仏の悟りを得る道こそ阿弥陀仏の願いそのものでした。

聖人は多くの経典の中から正しく拠り所とする教えとして仏説無量寿経(大経)、仏説観無量寿経(観経)、仏説阿弥陀経(小経)を選ばれました。中でも大経を最も大切な経典ととらえ、その中心となるのは阿弥陀仏の四十八の願いであると明かされました。聖人は中でも第十八番目の願いを阿弥陀仏の本意として本願と呼び、注目したのです。阿弥陀仏の願いとはまさに末世の今を生きる人々が仏の悟りを得ることです。自らの努力を積み重ねる難行道・自力聖道門の教えによる仏道を歩むことができない人々を救いたい、しかも一人として漏れることなく、全ての人を極楽浄土に往生させたいという思いなのです。

そしてその願いは、『正信偈』の源信讃に「我亦在彼摂取中 煩悩障限雖不見 大悲無捲常照我」と示されているように、もう既にかなえられているのです。私たちは阿弥陀仏の願いによってもう救いの中にいるのです。大切なのは、この阿弥陀仏の願いがすでに成就されていることに私たちが気づかされることなのです。私はすでに阿弥陀仏の救いの中におさめ取られているけれども、煩悩に邪魔されてそのことに気づくことができていません。蓮如上人のお言葉に「仏法は聴聞に極まれり」とあるように、浄土真宗では聴聞が大切といわれます。私たちは様々なご縁によって仏法を聞かせていただく機会に恵まれています。そこに明かされるのは、今の自身の在りようからすると阿弥陀仏の教えによらなければ救いの道は他にはないことに気づかされ、そんなあなただからこそ必ず救うという阿弥陀仏の願いがあったことを知らされて、一層仏法に心を寄せる自分に育てられることなのです。

令和二年 五月