浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

ちょっといい話

法話

2022

生死無常のことわり

No.632

新型コロナウイルスが六月までに世界中で感染者約一千万人、死亡者約五十万人という想像を絶する勢いで猛威を振るっています。このたびの新型コロナウイルス感染症によりお亡くなりになられた国内外の多くの方々に謹んで哀悼の意を表しますとともに、罹患されている皆さまに心よりお見舞い申しあげます。

現在、あらゆる識者が知恵を絞り対策を練っていますが、なかなか落ち着く気配が見えてきません。 この未曾有の状況に、どの業界も戦々恐々とした日々を過ごし、先が見えずに不安を抱える方も少なくありません。二月末からは北海道独自の緊急事態宣言、全国的にも四月中旬から緊急事態宣言が発令されましたが、五月二十五日には全ての都道府県で解除されました。その間、自粛を余儀なくされ、ユーチューブやズームなどオンラインでの繋がりが一気に普及し、新たな生活様式も垣間見えることでもありました。その一方で、オンラインではどうにもならない方達に大きな負担とリスクがかかっていることも忘れてはなりません。直接的に患者やウイルスと向き合う医師や看護師の方々、オンラインショッピング利用によって荷物量が増大した配送業の方々、また自粛によって客足が遠のいた飲食店の方々など、多くの業種で大きな影響を受けています。お寺も例外ではなく、当寺では三月から七月まで全ての法要、イベントの休座、中止が決まっております。

そんな中、政府が「持続化給付金」という新型コロナウイルス感染症拡大によって営業自粛等を余儀なくされて大きな影響を受けた事業者に対して事業の継続を支え、再起の糧としてもらうために事業全般に広く使える給付金の受付を開始しました。申請から給付までかなりの時間を要したり、申請書類の不備等で認められなかったり、挙げ句の果てには経済産業省から丸投げ委託されていた会社が実体があるのかどうかさえ分からなかったり・・・・。 

たった今、この時に苦しんでいる人がいることが全く見えてこないような報道もあり、最悪の場合にはいのちを落とす人すら出てきてしまうことがあるかも知れないと考えると、憤りを感じざるを得ません。

親鸞聖人の晩年の生活は、このように先行きの見えない、いのちの危険を感じながらの生活であったことが「親鸞聖人ご消息」に記されています。



『なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの死にあひて候ふらんことこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめす べからず候ふ。まづ善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定のひとは、疑なければ 正定聚に住することにて候ふなり。さればこそ愚痴無智の人も、をはりもめでたく候へ』



(何よりも去年から今年にかけて、老若男女を問わず多くの人々が亡くなったことは本当に悲しい。しかし、いのちあるものは必ず死ぬという無常の道理は、すでに釈尊が詳しくお説きになっていますから驚くことではありません。私自身(親鸞)としては、どのような臨終を迎えようとも、その善し 悪しは問題にはなりません。信心が定まった人は本願を疑う心がないので正定聚の位に定まっています。だからこそ愚かで智慧のない私たちであっても尊い臨終を迎えるのです)



このお手紙は、親鸞聖人が晩年、八十八歳の冬に書かれたものです。この世に生を受けたのであれば、必ず死を迎えなければなりません。しかしその死が、いつ、どこで、どのようにして訪れるのかは誰にも分かりません。だからこそ親鸞聖人は、「死なない者が死んだのではない。死すべき者がいのちを終えていったのだ。それは決して驚くべきことではない」と仰ってくださったのです。私たちが本当に驚くべきことは、いつどうなってもおかしくない私がいまここに生かされていることなのです。

コロナ禍において、いま私たちはいのちの一大事に直面しています。それはコロナウイルスの流行があって始まったことではありませんが、「当たり前」の生活を送ってきた私たちに、奇しくもコロナウイルスが「生死無常のことわり」を改めて知らしめる契機になったのかも知れません。


令和二年 七月