新年を迎えてあっという間にひと月が過ぎ、歳を重ねるにつれ月日の経つのが本当に早く感じられます。昔から世間では「時は金なり」といいますが、仏さまの教えでは「時はいのちなり」ですね。今日も尊い仏縁をいただいて日を重ねられるというのは本当にありがたいことです。私たちの人生は何が起こるかわかりません。時にまさかということも起こります。普段から健康のことに気をつけているにもかかわらず、思いもよらない病気になったり、昨日まで元気でいた方と突然お別れをしなければならなかったりと、本当に厳しい無常を思い知らされます。
3年前になりますが、大阪のお寺で住職をしていた大学時代からの法友が不慮の事故で享年41歳の若さで亡くなり、お浄土に還られました。知らせを聞いたとき、何のことか分からず、なんで? だれが? と正直ピンとこなくて悲しいのかどうかもよくわからない心境でした。そして当寺の副住職さんと一緒に実感もないまま大阪に行き、ご遺族の方々を前にして掛ける言葉など見つかるはずもなく、ただただ涙を流すだけでした。そして、前住職であるお父さまは、ご葬儀の最後に「みほとけに抱かれて」という仏教讃歌を唱和した後で、「今日まで、多くのご門徒さんのお葬式で唱和させていただきましたが、こんなに阿弥陀さまのお慈悲が深く身に沁みて感じたことは今までありませんでした。本当に厳しいご催促をいただきました。」と挨拶された言葉は、今でも忘れません。そしてお念仏が響き渡る中で、また遇える世界(倶会一処)を喜ばせていただきました。
古来、浄土真宗では、自分の思いをこえて身に起こった出来事を「ご催促」といただいてまいりました。日頃考えようともしないことを考えさせられるという意味で「仏さまからのはからい」と受け止めさせていただいたのでしょう。私たちは、老いや病気や死など、自分の都合の悪い事実に直面したとき、「なんでこんな目にあわなければならないのか」と嘆いてみたり、「この先どうなってしまうのだろう」と将来に不安を抱くものですが、自分にとって不都合なことも仏さまのご催促だと受け取っていくところに親鸞聖人の歩まれたお念仏の道があるのです。
大正時代に活躍された真宗高田派の村田静照和上は、次のような法語を残されています。『この世がうまい事行って面白かったら、ドウシテ念仏が称えられましょう。思うようにならんのが有り難いの。苦しいのが当たり前、苦しいのがお念仏のご催促。思うようにならんのもお念仏のご催促じゃ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏』、『この世は獄屋。三界の牢獄、三界は火宅と仰る。思うようになったらなおさら罪を造る。思うようにならんでこそ有難い。思うようにならんでこそ、実に有難いの。嬉しい時はお念仏はでません。悲しいときはおのずとなァ 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏』 (高下恵編「村田静照言行録」百華苑より)
お念仏をいただく私たちは、世俗を捨てて自らの修行によって悟りを開くのではなく、苦しみ悩むものこそなんとしても救い取りたいと願われた阿弥陀さまのおはたらきによってこの娑婆の縁尽きたとき間違いなく浄土に生まれ、仏とならせていただくのです。
最近は仏事ごとの簡略化が進んでいますが、先立たれた大切な方は仏さまとなり、正しい教えに出会ってほしい、仏法に出会ってほしいとご催促くださっています。どうか今日のご縁を大切にされ、後世にしっかりとお念仏の声を伝えていただきたいと切に願い、ともに感謝のお念仏を申させていただきながら、力いっぱい悔いのない一日一日を歩まさせていただきたいと思います。