浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

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法話

経教の鏡

No.682

「経教はこれを喩ふるに鏡のごとし。しばしば読みしばしば尋ぬれば、智慧を開発す。」
                       善導大師『観経疏』序分義
(お経に説かれた仏さまの教え「仏法」は、鏡のようなものです。何度も読み、何度もその心を尋ねるならば、智慧を生み出します。)

中国の高僧・善導大師が『観経疏』という書物の中で仰っているお言葉です。

日頃、私たちが使っている鏡は外見を映し出しますが、仏法という鏡は、私の内面・心を映し出す鏡です。

もしそのような鏡があったならば、どのような私が映し出されるのでしょうか。仏法の鏡に映し出された自分の姿がどれほど卑しい私が映し出されるのか、怖ろしささえ感じてしまいそうです。外見を取り繕うことは出来るかも知れませんが、内面を隠し通すことは出来ません。

親鸞聖人は『正像末和讃』で、
「外儀のすがたはひとごとに 賢善精進現ぜしむ 貪瞋邪偽おほきゆゑ 奸詐ももはし身にみてり」
(外面に現れた姿は、いかにも賢く善い行いに励んでいるかのように見せかけていますが、内面は貪り、怒り、腹立ちなど、嘘・偽りに満ちたこの身であります)
と仰っています。

嫌いな人と会って笑顔で接していても、心の内では悪口を言う私であるということでしょう。誰でもそのようなことは経験があるのではないでしょうか。

島根県に妙好人として有名な浅原才市さんという方がいらっしゃいました。才市さんは、いつも念仏を申して熱心にお寺に通う方でした。ある時、画家に自画像を描いてもらった際、完成した自画像は、穏やかな顔をして座って合掌している姿でした。しかし、才市さんは納得がいかず、「自分はこんな仏さまのような穏やかな顔をしている人間ではない。何かあれば人を傷つけ、心の中では何度も人を殺めている鬼のような人間なのだ」と言い、自分の頭に鬼のように角を付け足して描いてもらい、満足したというお話があります。

『なむあみだぶつは よいかがみ 法もみえるぞ 機もみえる あさましあさまし
  ありがたい あみだのこころ みるかがみ』

まさに、仏法という鏡に映し出された自分は、自己中心の心から離れられず、煩悩にまみれた愚かな自分に違いありません。しかし、自分の愚かさを知らされることで、いよいよ阿弥陀仏のお救いが私のためのものであったと気づかされるのです。

また、才市さんはこのような詩も残しておられます。
 「うちのかかあの寝顔をみれば 地獄の鬼のそのまんま うちの家にや鬼が二匹おる」

ケンカをしたあと、横で寝ている奥さまの顔を見たときの素直なお気持ちでしょう。妻を「地獄の鬼」と言い、
さらに「家には鬼が二匹」と自分のことも「鬼」と仰っているのです。自分にとって都合が悪く、怒りを持って
相手を見れば、相手が鬼に見えるでしょう。しかし、その相手を鬼として見てしまう、もっと恐ろしい姿をしているのが「自分という鬼」であるということに気づかされるのです。

仏法を聴き、自分自身の在り方を省みつつ、それでも尚、煩悩だらけの私であることを知らされるのです。「鏡」がなければ自分の姿が見えないように、「仏法」がなければ、自分の内面を映し出すことは出来ません。

毎日、仏法によって何度も自分自身を映し出す事で、「真実の私の姿」が見えてくるのです。

二〇二四(令和六)年 八月