浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

ちょっといい話

法話

私の生き方

No.595

最近、高齢者の運転する車の事故のニュースをよく耳にします。アクセルとブレーキを踏み間違えてしまい、お店に突っ込んだり、暴走してしまったりするのです。高速道路を逆走することもしばしば聞かれます。もちろん誰も事故を起こそうと思っているわけではありません。
一昔前であれば、「不注意」だとか「ボケた」と一言で済ましていたように思いますが、近年はその多くが「認知症」という脳の病気が原因であることが知られるようになりました。認知症の症状としては、記憶障害をはじめ、見当識障害や理解力・判断力の低下、徘徊や幻覚、妄想もよくある症状で、何事も実行することが困難になってしまいます。また感情を上手くコントロールすることができなくなり、暴力や暴言を発したり、うつ病などを発症することもあります。

現在、日本でも認知症患者は五〇〇万人とも言われ、一〇年後には七〇〇万人を超えると言われています。六十五歳以上の五人に一人が認知症という計算になります。決して他人事ではありません。認知症にならないように気をつけていても、思い通りにならないのが現実です。そんな「思い通りにならない現実」を受け止めていくことが大切なことだと教えてくれるのが仏教です。

こんな話を聞いたことがあります。
母親が認知症になったおかげで、子供の頃、母親に手を引かれて散歩していた私が、今は母親の手をとり散歩していることがなんとも不思議に思えてならないと言うのです。我が子さえわからなくなった母親を介護することは自分の時間もなく、辛く悲しい毎日でありましょう。しかし、母親を介護をする毎日に愚痴をこぼすどころか、「認知症のおかげ」で母親とふれあう時間を楽しみ、「認知症もまんざら悪くない」と言うのです。「だれの世話にもなりたくない」、「子供に迷惑はかけたくはない」、「健康が一番、寝たきりになるくらいなら死んだ方がマシ」 等々、普段、何気なく口にしている言葉ではないでしょうか。

認知症や寝たきりにはなりたくないと思うのは当然のことです。また、親や親戚、友人や知人が病に翻弄され苦しむ姿を見たくもありません。しかし、どうにもならないのです。「どうにもならない」、「仕方ない」 と言いつつ、どこか他人事のように考えてしまうのが私たち凡夫でありますが、認知症をはじめとする病気や加齢など様々な苦しみを機縁として気づかせていただけることがあるのです。どんな状態になっても親子関係や友人としての関係が変わることはありません。認知症になろうが、病に伏せようが、親は親、友は友なのです。阿弥陀仏もまた、私たち一人ひとりの親としていつでも、どこでも寄り添ってくださっています。そんな阿弥陀仏の支えがあってこそ私たちは安心するのでしょう。「いつも一緒だよ。安心しろよ」 という阿弥陀仏の呼び声を「南無阿弥陀仏」と聞かせていただくのです。私がここにいるからこそ私を支えてくれる家族や仲間がいて、私を必ず救うと願ってくださる阿弥陀仏がいらっしゃるのです。

実際に自分自身が、また家族が認知症という方も少なくありません。私たち一人ひとりがいつ病にかかっていくかも分かりません。だからこそ、日々平生の生き方が問われてくるのです。今、私の人生において本当に頼るべきものが何なのかが問われているのです。「認知症があっても安心して暮らせる社会」(認知症の人と家族の会)を目指しつつ、またどんな病に伏せようともお念仏を喜ぶ門徒として「おかげさま」の生活を送りたいものです。