年間、二万八千人、一日約78人。
これは自宅で死亡して二日以上経過して発見された
孤独死又は孤立死の件数です。
ーニッセイ基礎研究所の定義によるー。
こうした亡くなり方は一九六〇年代後半から70年代にかけて核家族化が進み、地域や家族間のきずなが失われたことによって頻発するようになって大きな社会問題となりました。ここで注意をしておかなくてはならないのは自宅(室内)と定義されていることです。自宅以外でも他人に気づかれることなく、発見されるのに時間を要する場合は少なくありません。
例えば山や海での災難、自然災害など、私たちの身近なところにもその危険は潜んでいます。 とすれば、その人数は更に増えることになります。
『星守る犬』が刊行されたのは二〇〇九年、二〇一一年には映画化もされていますのでご存じの方もいらっしゃるかもしれません。主人公は仕事を解雇され、家族にも去られてしまいます。残された愛犬とともに車の旅に出てガソリンもお金も尽きてしまったとき車内で亡くなり、行旅死亡人として人生を終えます。
作者の村上たかし氏はこの主人公の最期を「決して不幸ではなかった」と言っています。
むしろ仕事と家族を失ったことで「自分から世間に見切りをつけ、最後まで好きな生活を楽しんだ。
「傍らに犬。幸せだったはず」と明かしています。だから主人公に対して憐れんだり責めたりする反応が多かったことに驚いたそうです。
この作品で作者が言いたかったのは「孤立しても、かわいそうとは限らない」という思いでした。
私たちは日々、様々なつながりの中で生活しています。地縁であったり血縁であったり、家族もそのつながりの一つと言えるでしょう。つながりを重視するのは、社会生活を送るうえで重要なことであり、人が生きていくうえでは非常に大切な事であります。近頃、ポックリ逝きたい、周りの人に迷惑をかけたくない、ということをよく耳にしますが、そうした状態を徹底して突き詰めていくと、それがまさに今、社会で論じられている孤独死(孤立死)につながってしまうということに気づくべきでしょう。
家族の平均人数が3人以下になったのが90年代。これは孤独死(孤立死)や無縁仏が問題になり始めたことと無関係ではなく、さらに単身世帯は三割を超え、人と人のきずなが失われやすい社会になってきています。そのような現実の中で「つながりがなくても不幸とは限らない」という思いはどのように考えればよいのでしょうか。その根底には人は本来的には孤独であるということがあるのです。
『大無量寿経』に「独生独死、独去独来」とあります。「独り生じ独り死し、独り去り独り来る」
人は複雑な絆に支え助けられながら人生を送っていますが、所詮は独りの人生と言うのです。人は生まれてくるときも死ぬ時も一人です。たとえ多くの人々に見守られていたとしてもその生死には一人で立ち向かわなければなりません。誰とも共にすることもなく、誰にも代わってもらうことはできません。
私たちはつながりを持たなくては生きてはいけない存在ではありますが、お互い心の底から分かり合えるつながりを持てるでしょうか。本当の自分をさらけ出してのつながりがあるのでしょうか。
そういう孤独な人生の真の姿に気づいた時、その私に常に寄り添っていて下さる仏さまの大きな慈悲が喜びとなり,人とのつながりもより一層大切にする人生があるのです。
令和二年 二月