新年度に入ったと思っていたらもう二ヶ月が過ぎてしまいました。
「コロナが・・・」、「コロナの・・・」などというのが挨拶代わりになったようにも思える今日この頃ですが、この二年余り私たちの生活は以前とは全く別のものになってしまいました。
いろいろなことで我慢を強いられています。会いたい人と会えない、行きたいところに行けない、食べたい物も食べに行けない。学校生活も仕事のあり様も、社会活動などもコロナが流行する以前は当たり前に行なわれていたものの多くが大きな制約を受けるようになってしまいました。
多くの皆さんは辛抱強く我慢、我慢の毎日を送っています。
この「我慢」ですが、もともとは仏教で用いられる言葉なのです。私たちの日常生活では辛抱するとか、耐え忍ぶとか良いイメージで用いられています。また我慢大会とか落語の『強情灸』のやせ我慢のように少しコミカルに用いられることもあります。しかし多くの仏教用語が元の意味とは異なった用いられ方をされているのと同様にこの「我慢」もまた、現在の用いられ方は仏教的な意味からはかなり遠くなっています。
仏教では私たちの心身を煩わせる心の働きを煩悩といいます。除夜の鐘もその数にちなんで一〇八ともいわれますが、実際にはもっとたくさんあるのでしょう。私たちはそれほど多くの煩悩を抱えて生きているということです。「慢」はこの煩悩のひとつで、うぬぼれ、おごる気持ちを意味します。私たちの日常でも高慢とか驕慢などと用いられています。大谷大学の泉 惠機先生は慢について「他人と比べて自分を誇ったり過剰評価して思い上がる心を慢といいます。家柄、財産、地位、知識、能力、容姿など、比べることの出来る事柄では何にでも起こりえる煩悩のひとつです」と論じています。
我慢は仏教では
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①慢(自分が勝っているとうぬぼれる、同等の人には自分と等しいと心を高ぶらせる)
②過慢(同等の人に対して自分が勝っているとし、自分以上の人は自分と同等とする)
③慢過慢(勝っている人を見て自分はさらに勝っているとうぬぼれる)
④我慢(自負心が強く、自分本位)
⑤増上慢(悟っていないのに悟ったと思い、得ていないのに得たと思い、おごり高ぶる)
⑥卑慢(非常に勝れている人を見て自分は少し劣っていると思う)
⑦邪慢(間違った行いをしても正しいことをしたと言い張り、徳が無いのに有ると思う)
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という七慢のうちの一つです。
コロナが蔓延するようになって特に目立って起こっていると思われる問題の根底にあるものも、⑤の「我慢」が意味する「自分本位」によることが少なくはないということです。
飲食店や仕事の内容によっては計り知れない被害を被って心を傷め普段、私たちが使っている辛抱という意味での我慢をされている方には誤解をされるかもしれませんが、そういう煩悩を抱えながらしか生きられない自分の真の姿を知る事が大切なのです。
ワクチン接種にしても根拠が曖昧な自らへの優先接種の主張や、地元有力者への忖度など、厚生労働省が示している優先接種の考え方にはそぐわないと思われる主張も、ルールを無視した会食、会合や、飲食店の営業自粛や時間短縮によって行き場を失った人たちによる禁止区域への立ち入り、路上での飲食なども自分を優先し、他人を軽んじる想いからの行動でしょう。
かつて起こった様々な自然災害や感染症の流行に比べても劣ることのないこの度の新型コロナウイルスの脅威に対して、今私たちにできる事は我慢という煩悩から離れられない自らを自覚し、一人一人の行動の判断が自分の生命や周りの人たちの生命への脅威に直接結びつけていく危険を孕んでいることに気づくこと。そして、それぞれの立場で感染を防ぐために自分本位の行動を慎み、顧みる思いを持つ事が大切なことでしょう。その姿がお念仏の教えに生きる私たちの生き方なのです。
令和三年 六月