浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

ちょっといい話

法話

耳四郎

No.637

親鸞聖人が師と仰がれた法然上人の時代に、摂津国(大阪)に耳四郎という大泥棒がいました。

耳四郎は放火・殺人・強盗などありとあらゆる悪事を重ね、当時は耳四郎が来たと言えば泣いている子も黙るというくらい人々から恐れられていました。

そんな耳四郎はいつものように盗みに入って床下に忍び込んでいると大勢の人が集まってきて法然上人のご法座が始まったのです。その中で法然上人は「どんな悪いことをした者でも必ず助かる。それが阿弥陀さまのご本願であり、罪深い者こそ阿弥陀さまは真っ先に助けずにおれんと願っておられる」というお話をされていました。これを聞いた耳四郎は黙っておることができずに縁の下から出てきて法然上人に今まで自分がやってきた悪事を告白して、「どんな者でも助かるという話をされていたが、この俺でも助かるのか」と法然上人にたずねたのです。

すると法然上人は「耳四郎殿、よくお聞きなされ、この法然が助かるのですよ。こんな私のようなものでも助かるのだからそなたの助からぬはずがない」とお答えになられました。

耳四郎はてっきり「今までやってきた悪事を反省しなさい、そうすれば救われるのだ」とでも言われるかと思いきや、当時「智慧第一の法然坊」と呼ばれ、生き仏とさえ言われた法然上人からこのように言われたのに驚き、その後お念仏の行者になられたというのです。

浄土真宗は悪人こそが救われる教えと言われますが、そういうと私たちはすぐにほかの誰かを探してみたり、法律を犯した人を思い浮かべてみたりしますが、この場合の悪人とは法律的に罪を犯したかどうかという事ではなく、煩悩を抱え、どんな仏道修行をしても迷いの世界から離れらない私のことなのです。

私たちは、たとえ今まで殺人や強盗をしなかったとしてもそれはたまたま縁が整っていなかっただけで、私の本性が立派だったからでは決してないのです。そして物事の正しい道理がわからずに常に心が乱され、欲がおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころがひまもなくわき起こり、臨終のその時にいたるまで無くなることがなく、縁次第ではどんな振る舞いをするかもまったくわからないのです。

こんな私が自らの行によって仏と成ることは絶対にないと親鸞聖人はおっしゃられています。

しかし、ガンジス川の砂の数ほどの仏さまの中で唯一阿弥陀さまだけは「どこまで行っても自我の迷いの世界から一歩も抜け出すことができない私こそを救いの目当て」とされ、どうしても救わずにはおれないと立ち上がり「われにまかせよ、かならず救う」と『南無阿弥陀仏』のお喚び声となって私にはたらき続けてくだされているのです。

そして「親鸞一人がためなりけり」と、親鸞聖人は阿弥陀さまにご本願を起こさせたのはほかでもなく、この私だったと自己を厳しく見つめられ、本当に申し訳なく、もったいないことですとお念仏の道を歩まれました。私たちもお念仏のみ教えを聞かせていただくとき、何よりもそういう姿勢を大切にしなければならないと思います。

西本願寺の勧学(教学面での最高位の称号)であられた山本仏骨和上もご法話の中で、「炎というのは木があるところに燃え上がり、木のないところには炎は燃え上がらないように、阿弥陀さまのお慈悲の炎はこの私のところで燃え上がるのであって、この私から離れたところではお慈悲の炎は燃え上がらないのです」と阿弥陀さまのお心をお味わいなされています。

私たちの人生は、次から次と様々なことが起こるものです。うれしいこともあれば悲しいこと辛いこともあります。その中で私たちは、自分の思いを中心とした狭い世界の中でしか生きることができない存在だからこそ、人生におけるひとつひとつの出来事をお念仏に遇わせていただく尊いご縁と受け取らせていただき、これからも阿弥陀さまのお慈悲の中でお浄土への道中である一日一日を力強く前進してまいりたいものです。

令和二年 十二月