最近、初対面の方々とたくさん知り合うことがあり、より多くのご縁を結ばせて頂く機会をいただきました。有り難いことであります。そんな中、僧侶である私の素性が分かるとよく受ける質問があります。それは「髪のばしていいの?」「どうして髪の毛があるの?」と言ったような質問です。 幼少の頃から受けてきた問いでありますが、私は大抵この問いにこう答えていました。
「浄土真宗はいいんだよ」と・・・簡単な答えしか返せずにいたことであります。
では何故私たち浄土真宗の僧侶は髪をのばしても良いのか? その質問に答えていきたいと思います。
髪の毛はそもそも「煩悩の象徴」と言われます。そのために煩悩を捨てゝ悟りを目指す第一歩として髪を剃るのです。その後、自分自身が仏になるために修行をし、煩悩を無くしていくのです。
このような人のことを「善人」と呼び、尊い可能性のある人とします。
一般的に「善人」とは、善良な人・行動の正しい人・優しい人などという意味でありますが、仏教的に「善人」とは、自らの善なる行いによって悟りを向かえると信じる人とされます。
ここでは、仏教的善人ということで「善人」を捉えさせていただきますが、 しかしどうでしょうか? 私たちはどのようなことをしても「善人」にはなれないと思いませんか?
他の命を奪ってしか生きられない私たち、 怒り・ねたみを持ちながら生活している私たち、自分中心の考えの中でしか行動できない私たち、まさしく「善人」どころか一般的にいう「悪人」としか言い様のない私ではないでしょうか?
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は長年の修行の中でも煩悩を捨てきれない自分であり、自身が悟りに至れないことをお気付きになられた方でした。そんな悟りを得ることのできない私に「そのままでいいよ」と仏の方から声をかけられ、親鸞聖人は”煩悩の象徴”である髪の毛をのばし、自身のお姿を素直にありのまま表したことであったのでしょう。
「非僧非俗」という言葉があります。”僧に非ず、俗に非ず”という意味の言葉です。親鸞聖人はそのようなお考え・お姿で布教をされておられました。自身を仏教的「悪人」として・・・。
仏教的悪人とは、道徳的に悪いということではなく、阿弥陀仏の願いを聞き、自らは罪をおかさずには生きられないという罪悪を深く悲しむ人のことを言います。
阿弥陀仏の願いとは、生きとし生ける全てのものを必ず救うという成就された願いであります。その願いでいただく安心感の中で自身を見つめ直すことを親鸞聖人はされていたのでしょう。
親鸞聖人の生き方・自身の捉え方は、私たちも見習うべきでありましょう。
自らを見つめ直し、「悪人」としての自覚から仏教的悪人になれた時、自らを反省し他を思いやる人間らしい生活が出来るのでしょう。
浄土真宗の僧侶が髪をのばしてもよい理由、わかってもらえたでしょうか。安心の中、
二〇二四(令和六)年 十一月