昨年、長野県で日本初のドライブスルー葬儀場が運を営開始されました。車椅子などで生活する高齢者や身体の不自由な方のために始まったサービスということです。祭壇の横に窓があり、車から降りずにお焼が香できるので便利で助かるという声もあれば、なんだかお葬式にドライブスルーなんて不謹慎という声もあります。葬儀も今はビジネス化し、サービスの競争も激化しています。現在すでにお墓にお参りに行けない方のためにインターネットを使ってモニター越しでお参りができるというサービスがあり、今後オンライン葬儀という形も出てくるかもしれません。
またその一方でお葬式をせずに直接火葬場へ行ってそれで終わりという方もいるようですが、中には火葬場へも行かずにすべて葬儀社の方に任せる「無葬」という形もあるそうです。身寄りのない方ならまだしも明らかにそうではなく、「無宗教だから」とか、「人が死んだらなぜお葬式をしなければならないの?」という人が多くなってきていることに危惧の念を抱かざるを得ません。
今後、日本は人生百年時代に入るといわれ、ますます少子超高齢化が進み、医療や介護の現場では人手不足が深刻化し、海外労働者の受け入れやAI(人工知能)の導入などが検討されていますが、長生きすれば若かった時と違った苦悩があり、多くの方のお世話もいただかなくてはなりません。自分が死んだときはこれ以上迷惑かけたくないという気持ちからお葬式はいらないという方もいらっしゃいます。
しかし、お葬式は残された方の今後の人生に大きくかかわってきますので、そのような遺言はしないでください。その遺言に従って誰にも知らせずにお葬式をしなかった場合、様々な問題が起こるのも事実です。後で知った方々が何ヶ月にも渡って自宅にお参りに来られるのでかえって迷惑をかけてしまい、自分自身も疲れ切ってしまったという話や親戚や周りの方との関係が疎遠になり、さみしい思いをしたという話も聞きます。
以前は、葬儀は「困ったときはお互いさま」と町内で助け合っていました。葬儀の手伝いは突然なので大変ですが、実はすごく大切なことだったのです。葬儀の大まかな内容が把握できますし、町内の方とのコミュニケーションがとれ、さらに仏法を聞かせていただくことができたのです。しかし、最近はお葬式の手伝いもほとんどなくなり、近所の方が亡くなったことも分りません。
私たち浄土真宗の門徒のお葬式はどんなに辛くて悲しい中にあっても先立たれた方のご遺徳を偲び、阿弥陀さまのお育てに感謝をし、お浄土での再会を誓わせていただく尊いご縁なのです。
人間は死んだら灰になるのではありません。浄土に生まれ、仏にならせていただくのです。先立たれた方は自らの姿をもって無常を教え、「明日はないぞ、仏法を心の支えとし、他を思いやって精一杯生きてね」と私に寄り添ってくださってくれるのです。
仏法に遇うご縁はさまざまですが、私たちは大切な方を亡くした苦しみ、悲しみがなければ仏法のご縁に遇うことは難しいのかもしれません。お釈迦さまは仏法に遇うことができるいのちはガンジス河の砂の数ほどの中で親指の爪の上に乗るだけしかいないとお諭しくださいました。
いま私たちはその尊いご縁をいただいているにもかかわらず、本当に仏法を大切に聞かせていただいているでしょうか。一度や二度聞いただけですべてが分かったような顔をしているのがこの私であります。
蓮如上人は仏さまのお心がわからなくてもただひたすら生涯かけて聴聞すれば必ずあなたの心に仏のお心が届くのです。だから、命がけで聴聞しなさいと言われました。
また、仏法は若いうちに聞きなさいともいわれています。俗に三度のご飯がおいしいうちにということです。人生はあっという間に過ぎてしまいます。先延ばしせずに家族や周りの親しい方とともにお寺のご法座にお参りし、命がけで仏法を聴聞させていただきましょう。