浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

ちょっといい話

法話

『不要不急』と『自粛』

No.636

昨年12月に中国の武漢で発生した急性呼吸器疾患は新型コロナウイルス感染症と名付けられ、瞬く間に世界中に広まってしまいました。日本では今年に入って1月16日に武漢に渡航した中国籍の男性の感染が初めて確認されました。その後、ダイアモンド・プリンセス号からの市中感染、屋形船での集団感染など様々な感染拡大を起こしています。緊急事態宣言、一斉休校の対策など、私たちの日常生活にも大きな影響を及ぼしました。手指の消毒、マスクの着用、ソーシャルディスタンスの徹底や密閉、密集、密接のいわゆる「三密」を避けることなど、様々な対策が示されましたが、中でも「不要不急」というキーワードはウィズコロナの下で生活する私たちの活動に大きな影響を与えたのではないでしょうか。

外出自粛要請が発出された場合の不要不急の外出について、感染症学が専門の長野保健医療大学の北村義浩先生は「命にかかわるかどうか」での判断を基準として示しています。東京都の見解を一例としてみてみると、「あくまでもお願いであり、個人の事情に違いがあるので各自がご判断いただきたい」として用事のない散歩、屋外での運動、大人数での集まりなどを控えてほしいとし、人との距離を保ち、接触を避けることを求めています。一方、都知事は食料品・医薬品の買い物、通院、通勤での公共交通機関の利用は制限を受けない、と会見で述べています。様々な解釈があると思いますが、私たちが起こす行動で「不要」なものなどはないのではないでしょうか。人の行いには何らかの意味があり、他人にとっては理解できないことでもその人にとっては大切であることも少なくないでしょう。極端に言えば個人個人に於いては不要なものはどのような状況にあっても不要であり、必要なものはどのような状況にあっても必要なのです。要不要があくまでも各人の判断によるものであるのならば、ここで考えなければならないのは「不急」ということなのかもしれませんが、「今それをする必要があるのか」という問いの答え、これもまた各人の判断に任せられるべきものになります。根本的に「不要」も「不急」も各人の判断が尊重されるべきことであるならば大切なのは「自粛」であり、「他粛」ではないことになります。

「コロナ差別」という言葉があります。緊急事態宣言のもと、移動が制約される中で都道府県をまたいでの物流に従事する人や医療に従事する人、さらにその家族にまで心無い言葉がかけられたり、差別されたりすることがあると聞きました。他地域のナンバープレートを付けた自動車に対する嫌がらせや実際に損害を与えるなどの事件も報道されています。その対策として「他地域のナンバープレートですが、この地域に居住しています」というようなステッカーをわざわざ制作したところもあるとも聞きました。新型コロナでこのような差別が起こる背景には未知のものへの不安や恐怖から自らを守りたいという当然の思いがあるのでしょうが、これがエスカレードしたとき、このように感染した人へのいじめや差別につながる恐れがあるのです。

また、「自粛警察」という聞きなれない言葉も聞かれるようになりました。「大勢の人が外出を控えているときに出かけている人は許せない」という非難に代表される、他人の行動に対する過剰な反応もまた感染に対する不安や恐怖心によるものと思われます。

「コロナ差別」には自分は感染しない(していない)という根拠のない思いこみが根底にあり、「自粛警察」には自分の思いこそが正しいという、行き過ぎた正義感がその背景にあるのでしょう。

私たちは今、かつて経験した事のない異常な生活を強いられています。解決の目途も当分たたない今、誰もが感染する可能性がある中で差別や過剰な反応が起こっています。しかし、こんな時だからこそより冷静な、そして正しく物事を判断する姿勢が一人一人に求められているのです。有効な予防薬や治療薬が開発されるまで偏った思い込みに惑わされることのない判断と、下した判断の結果に対する義務が伴っていてこそこれ以上、状況を悪化させないための真の「自粛」といえるのではないでしょうか。

令和二年 十一月