浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

ちょっといい話

法話

お喚び声

No.601

あるご門徒さんのお宅で、お勤めが終わってお茶をいただきながら、ご主人との会話で「お寺さん、歳をとってみないとわからないこともあるもんですわ。最近特に忘れっぽくなりまして、認知症にはなりたくないし、なるべく子供に迷惑をかけんようコロッと逝ければいいんだけど、かといって自分で首をくくる勇気もないし困ったもんですわ。歳いったら思うようにいかんことのほうが多いですわ。長生きも大変、若いときが一番いいですわ。なんだかすまんかったね、お寺さんにくだらん愚痴ばかりを聞かせてしまって。」と冗談っぽくお話されていたので、私も軽く聞かせてもらえたのですが・・・。

私たちはいつまでも健康で長生きしたいと思っていますが、なかなかそうもいきません。歳を重ねるにつれて大きな病気になったり、大切な方を亡くしたりと、若い頃には思いもしなかった苦しみやさみしさ、この先の不安などを抱えながらこの身を生きています。「何のために生きているのだろう?」「あとどのくらい生きれるだろう?」「死んだらどうなるだろう?」と誰もが一度は考えるものです。しかし、そのような人生の問いについていくら考えてたところで私たち人間の知恵では到底答えなど出るはずもありません。そんな時は遠慮なくお寺さんにお話しましょう。愚痴になっても構いません、大歓迎です。そして一緒にお念仏申しましょう。お釈迦さまは、「人生は苦なり」と説かれました。そしてその苦を乗り超えていく道を教えているのが仏教であります。

親鸞聖人は、九十年のご生涯をかけて、このどうすることもできない「生老病死」の苦の解決を阿弥陀さまの救いの中にお見つけくだり、お示しくださいました。親鸞聖人は、「なもあみだぶつ」のお念仏を「本願招喚の勅命」と頂かれました。わかりやすく言うと、「お前をたすける親がおるぞ、まかせよ」と、私を喚びつづけて下さる阿弥陀さまからの「お喚び声」とお味わいなされたのです。お母さんと一緒に歩いているお子さんが道路に飛び出し、車にひかれそうになったらお母さんはまっ先に「危ない! こっちに来なさい!」と大声で叫び、それと同時にその子をそのまま抱きかかえて離さないでしょう。それと同じように、いつも自分の都合を優先し、片時も欲望から離れることができずに苦悩している私を阿弥陀さまは「放っておけない、見捨てることができない」と立ちあがってくださり、このままでは救われようのない私を見抜いて、摂め取って捨てない親となってくださっておられるのです。

昔から浄土真宗では阿弥陀さまを「親さま」と親しみを込めてお呼びします。阿弥陀さまは、私がどのような人生を送ろうと、どのような生き方をしようと決して見捨てず、「つらいね、悲しいね」、「思うようにいかないね」、「これが娑婆世界なんだよね」と、ともにより添い、ともに泣いてくださっておられます。最近はお参りのときに、お念仏の声が聞こえなくなったといわれています。人前で大きな声でお念仏をすることは恥ずかしいという方もいるかもしれません。そんな時は、自分にだけ聞こえるくらいの声でもかまいませんので、親さまの「お喚び声」を聞かせていただきましょう。お念仏をいただく私たちは、いのち終われば阿弥陀さまのおはたらきによって必ずお浄土に生まれ、仏とならせていただくことが約束されています。私が称えたお念仏ではありますが、阿弥陀さまが私に声の仏さまとなって至り届いてくださっており、今ここで、すでにみ仏に抱きとられているのです。

人生いろいろなことがありますが、親さまの「お喚び声」を聞かせていただきながら、生きてよし、死んでよし。健康でもよし、病気でもよし、と阿弥陀さまと共に苦難の人生を生きぬかせていただくところに、浄土真宗という仏道があるのです。  

また新しい年がきます。そんな新たな気持ちで新年を迎えましょう