浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

ちょっといい話

法話

ありがとう

No.694

「ありがとう」という言葉、私たちは日々の生活の中で頻繁に口にする言葉であると思います。言っても言われても気持ちの良い言葉でありますが、あらためて「ありがとう」を考えてみたく思います。

「ありがとう」を漢字を使って書くと「有り難う」となります。まさしくあることが難しいということで、対義語としては「当たり前」が当てはまります。当たり前ではない有ることの難しいことに対して感謝する心の言葉になるのです。

では、普段よく使うこの言葉、どのような時に使っているでしょうか。私もよく口にしますが、よくよく考えてみますと何か自分に対して都合の良いことをしてもらったり、言ってもらった時に口にすることが多いように感じます。本当の意味での「ありがとう」をどの位使っているのか・・・、考えることがあります。

この様なお話を聞いたことがあります。ある幼稚園でのお話でありますが、お弁当の時間、食前・食後に手を合わせ「いただきます」・「ごちそうさまでした」と言っていました。感謝の気持ちで言うこの言葉に対して、ある父兄がこう言ったそうです。「お弁当を作っているのは私です。何故先生に対してありがとうの意味の、いただきます・ごちそうさまでしたを言わせているのですか?」と・・・。

皆さまはこのお話をどう思われるでしょうか?何か勘違いしていると思いませんか?私たちが手を合わせ口にする「いただきます」・「ごちそうさまでした」は、対ひとつに対して使う言葉ではないでしょう。お弁当のお話で考えてみますと、ご飯(お米)や食材(肉や野菜等)の命をいただいていること、お米を作ってくれている人や肉、野菜等を育ててくれている人のことを考えていない発想からの意見だと思ってしまいます。

私たちの浄土真宗本願寺派(西本願寺)には「食前・食後の言葉」があります。

『食前の言葉』ー「多くのいのちとみなさまのおかげによりこのごちそうをめぐまれました。深くご恩をよろこびありがたくいただきます。」、
『食後の言葉』ー「尊いお恵みを美味しくいただき、ますます御恩報謝につとめます。おかげでごちそうさまでした」という言葉であります。

私たちは、たくさんの命のおかげ、様々な事柄の中で日々生活をさせていただいています。たくさんのご縁によって生かさせてもらっているのです。

「ご縁」とは「因果」とも言われます。因(原因)があって果(結果)がある。その様な真実の中で私たちは生きているのです。仏教は、このご縁(因果)の関係を大切にする教えであります。ご縁(因果)に気付かせてくれる教えが仏教であります。気付きの教えとも言われる仏教を心の依り処とした時には、他に対しての感謝の気持ちも生まれてきます。感謝の気持ちを持つと、”生きている”のではなく、”生かされている”ということにも気付いていけるでしょう。また、自身が他を生かさせているということも忘れてはいけないでしょう。

阿弥陀仏のお救い・お働きによっての気付きの中で、感謝の気持ちを持ち「ありがとう」と ・・・ 。

そして、そのことに気付かせていただけた阿弥陀仏のお心に感謝を持って「南無阿弥陀仏」(ありがとうございます)と手を合わせていく。そのような日々を過ごしていけると良いですね。


二〇二五(令和七)年 八月