早いもので11月になりました。寒くなって体調に気を付けてお過ごしのことと思いますが、今こうして
仏法の尊いご縁に合わせていただき、一日一日を大切に、感謝の心で手を合わすことのできる人生は豊かで
とても有難く思います。
私たちは、生きていればさまざまな問題がこの身の上に起こってくるものです。健康面だったり、家族のことだったり、この先のことだったりと、私たちの悩みや心配は尽きません。
毎月お参りをさせていただいているお宅でも、お変わりないですか? とお聞きすれば、何かしら皆それぞれに問題を抱えておられ、お話を聞かせていただくこともあります。そんなときには阿弥陀さまにお願いをしてお参りすることもあるんですがと、ある方が言われていました。自分ではどうすることもできないことに直面すれば、当然そのような心境になるのが私たちです。ただここで大切なことは、お願いをしてはいけないということではなく、その辛い中で逆に私が阿弥陀さまの願いを聞かせていただくということです。
普段私たちは「たのむ」というと、お願いをするという意味で使うことが多いので、阿弥陀さまにどうか助けください、自分の願いを叶えてくださいとお願いをするように思ってしまいますが、浄土真宗はそういう教えではありませんので注意をしましょう。
お念仏の教えは、「弥陀にたのむ」ではなく「弥陀をたのむ」ということが大切であり、憑むという漢字を書きます。その意味は、阿弥陀さまをよりどころにするとか、おまかせをするということです。
私たちは、様々な願いをもち、その願いを大切にして生きています。しかし、その願いは自分を中心とした
願いが多いものです。
世俗の地位や名誉や利害損得には敏感に反応し、思い通りになればおどりあがって喜び、思うようにいかなければ落ち込み、腹を立ててしまいます。
そんな名利や欲のために、昼となく夜となく懸命に走りまわり、愛欲と憎悪を燃やし続け、人を傷つけ、
人生を空しく過ごしてしまう私の姿を阿弥陀さまは心の底まで見とおし、「必ず救う、我にまかせよ」という南無阿弥陀仏の喚び声となってこの私にはたらいてくださっているのです。
阿弥陀さまの「お前を救うぞ」の仰せをそのまま聞いて、「ありがとうございます」とおまかせしたとき、私の往生は定まるのです。
そして親鸞聖人は、喜ぶべき救いの道を恵まれていながらそれをまともに喜ばない浅ましいこの身こそ、まさしく救済のお目当てであったといただき、そこに救いの確かさを味わっていかれました。
もしも念仏するごとに躍り上がるほどの喜びもあり、急いで浄土へまいりたいものだと思う心がおきたならば、私には煩悩がないのじゃなかろうかとかえって疑わしく思うではないかと歎異抄には仰せられています。
私たちは、形あるものばかりにとらわれ、何事につけても執着し、迷いの中にいることすらも分かっていません。そんな私が仏とならせていただく仏道は、「弥陀をたのむ」という浄土真宗より他にはありません。 本当に尊くありがたいことです。
これからも阿弥陀さまのお心を聞かせていただく「聴聞」を大切にし、お念仏をよりどころとして浄土への道を心豊かに歩み続けたいものです。
二〇二五(令和七)年 十一 月