浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

ちょっといい話

法話

主観・客観

No.648

このところ、ワクチンの効果もあってかコロナでの影響も少しずつですが落ち着いてきているように思われます。 街にも活気が出て観光地も賑わいが戻り始めています。

お寺でも行事を多少ではありますが規模を縮小してお勤めさせていただけるようになり、葬儀の時も参列者が増えたりと平常を思い出すことも増えたように感じています。

もちろん油断は禁物ですが・・・。ところで皆さんは自粛生活はどうしていらしていたのでしょうか?

家から出る機会が減り買い物もまともにできず、趣味や習い事をすることも我慢し、外食等は特に気を使いながらのことであったでしょう。そんな中テレビや映画を観る機会が 増えた方も多いのではないかと思います。私もそうでありました。

ある戦争映画を観ました。日本軍の真珠湾攻撃が題材のアメリカの映画です。

この映画を観て思ったことは自分がアメリカ軍の立場で主観的に物語りを観ているなと言うことで、日本軍が恐ろしく感じました。しかし、別の映画で神風特攻隊の映画を観た時は日本軍の立場での主観でアメリカ軍が憎らしい気持ちになったことです。自分の主観を持ったとき自分に都合よく考え、解釈をしてしまう。皆さんはどうでしょうか?

主観とは外界に対する自我を持つ意識内容で、自分一個の意見とされています。都合のよい考え、解釈はまさしくこのことであるのでしょう。

学生時代、真宗学のゼミを専攻していました。このときに衝撃的な事柄を先生から聞かされました。

『親しい人を亡くして涙するのはその人が自分にとって都合のよい人だからです』と。

最初に聞いたときには 驚きの気持ちでいっぱいでしたが、よくよく自分を省みるとその通りかもな・・・、いや、その通りだと気付かされました。自分自身を客観的に見られた結果であると思います。

客観とは特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりする様とされ、主観の対義語とされます。私たちは主観の立場を重んじて他を否定することが多い生き方をしてしまっているように思われます。

自分の意見を押しつけ、意見が通らないときには怒ったり泣いたり、ともすれば人を傷つけることも平気でしてしまう場合もあります。

『他人を見つめるほどの厳しさで自分を見つめてみよう』

お寺の掲示板の『今月の法話』、住職の言葉です。客観的に自分を見つめる、省みることの大事さを示しているように思われます。

客観的に自分を見つめ、省みることができたなら恥ずかしさや悲しさなどを感じながら反省の気持ちになることでしょう。しかし、この気持ちこそが他の主観を受け入れることのできる大事なことであると思われます。

浄土真宗の宗祖親鸞聖人は自己を深く内省されるお方でありました。どこまでも罪人であり、悪である私を必ず救うと誓い、願われた阿弥陀様のお慈悲のはたらきに南無阿弥陀仏と帰依されていきました。

自己の内省は阿弥陀様のお慈悲のはたらきの中で自然になされていくものなのでしょう。

西本願寺第25代ご門主が念仏者の生き方の大切なところを『私たちのちかい』として4ヶ条にまとめられました。 その一つに『自分だけを大事にすることなく、人と喜びや悲しみを分かち合います。慈悲に満ちみちた仏さまのように』とあります。

自我(主観)を持つ私たちが自身を客観視したときにこそできることではないでしょうか。

主観と客観、どちらも大事な事柄でありますが、人と人がつながるとき、主観を持ちつつも自分自身にたいして客観的視点を持つことを忘れずにいることは大切なことであります。    

令和三年 十一月