浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

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法話

名前

No.678

名前には人や物事を区別するはたらきがあります。皆さまにもそれぞれお名前があり、物事にもそれぞれ名前があります。例えば、「えんぴつ」と言われて「かぼちゃ」を想像する人はいません。その人、物、事を表すのが名前なのです。しかし、名前の意味はそれだけではありません。名前にはさまざまな思いや願いが込められています。落語の「寿限無」も、我が子に願いをかけて名前をつける親の気持ちの表れでありましょう。私という存在と名前とは、決して切り離して有り得るものではなく、同じ一つのものなのだと思うことです。ご自身の名前に込められた思いや願いをご存知の方もいらっしゃるかも知れませんし、この機会にご両親に聞いてみるのも良いかも知れません。

「法名」も名前のひとつです。「法名」とは、仏法に帰依し、お釈迦さまの弟子となったことを表す名前です。本山(西本願寺)で帰敬式(おかみそり)を受式し、本願寺住職であるご門主から「釋○○」という法名をいただきます。法名は亡くなってからの名前ではなく、仏法に出遇い、念仏者として生きることを約束させていただく名前です。できるだけ生前にいただくことをお勧めいたします。

さて、親鸞聖人はご生涯で名前が四回も変わっています。九歳で出家した時には範宴、二十九歳で比叡山を下りられ法然聖人の門下に入ってからは、綽空、善信、そして親鸞と名乗っています。
この綽空、善信、親鸞という名前は、七高僧である天親菩薩、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師、源信和尚、源空聖人のそれぞれ一字を取って付けられたお名前です。このことからも親鸞聖人が七高僧を敬い、尊んでいたことが窺い知れます。親鸞聖人は善知識である方々の名前をいただくことで、自分自身の歩むべき道を確信していったのかも知れません。

浄土真宗のご本尊である阿弥陀仏は、「声の仏さま」ともいわれます。『重誓偈』に
「我至成仏道 名声超十方 究竟靡所聞 誓不成正覚」
(われ成仏道に至らんに 名声十方に超えん 究竟して聞ゆるところなくば誓う 正覚をならじ)

「私の名号『南無阿弥陀仏』を広く世界に響かせよう。もし聞こえないところがあるならば、誓って仏には成らない」

とあるように、阿弥陀仏みずから名前を名告り、その存在を私たち一人ひとりに知らせ、必ず救うと至り届いていてくださっているのが、私たちが称えるお念仏『南無阿弥陀仏』なのです。つまり、私が称えようと思って称えているお念仏ではなく、阿弥陀仏の方から願われているからこそ、私の口からお念仏が出るのです。

又、「阿弥陀」とは、インドの言葉であるサンスクリット語「アミターユス、アミターバ」を音訳したもので、「無量寿、無量光」と訳されます。「無量」とは字の通り、際限がない、計り知れないという意味があります。「寿」とは時間的なはたらきを表し、また「光」とは空間的に事物を明るく照らしはっきりとさせるはたらきがあります。つまり、「無量寿、無量光」とは「いつでも、どこでも」ということなのです。阿弥陀仏の無量のいのちを以て、阿弥陀仏の無量の光のはたらきをいただき、自分では見えなかった本当の自分の姿を知らされると同時に、そんな私を放ってはおかないという阿弥陀仏が居てくださることに気づかせていただくのです。

「阿弥陀」という名前に込められた願いをよく受けとめて、南無阿弥陀仏とお念仏を申させていただく、また、お念仏を申しながら「阿弥陀」という名前に込められた願いをよく聴聞させていただくことが大切なことなのです。

二〇二四(令和六年)四月