浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

ちょっといい話

法話

2020

裁く

No.603

最近、テレビや新聞の記事には、暴行事件、詐欺事件、不倫など、あまり良くないニュースばかりが目立ちます。日本の国技とまで言われる相撲界は元横綱・日馬富士の暴行事件に始まり、行司のセクハラ、そしてさらに暴行事件の隠蔽…。十年ほど前に起こした暴力による死亡事件が全く教訓にもならず、今なお繰り返し「かわいがり」が行われていたことに残念な気持ちと失望、腹立ちさえも覚えます。

私たちの社会は法律など一定のルールの中で生活しています。ルールに反すれば何らかの罰を受けなければなりません。だからこそ社会の秩序が守られるのです。しかし、規則は破るためにあると言わんばかりに、抜け道を探し、法を犯すことに労力を使う人が多いとも感じます。詐欺事件などはこれだけ世間で騒がれ、注意喚起されているにも関わらず、被害は拡大しているのも事実です。悪知恵を一生懸命にめぐらしているその知能を人のために、良い事に使ってほしいものです。しかし、法律やルールがすべて正しいわけではないことも知っておかなければなりません。

例えば、痴漢などは訴えられるとほぼ有罪になってしまうようです。痴漢をしていない人でも犯罪者になってしまう、いわゆる冤罪です。迷惑行為防止のために定められた条例が冤罪を生み出してしまうこともあるのです。そんな曖昧なルールの中で、最近は何でもありの評論が多いように感じます。「一億総評論家」といわれて久しくなりますが、芸能人がひな壇に座り、専門家も交えて、あーでもない、こーでもないとニュースについて話をするのです。そのような番組を見ていると、どうしても違和感があります。専門家はその分野で研究や分析をして情報やデータを示すのでしょうが、それ以外の出演者たちはそれぞれの思いをそれぞれに話すのです。あたかも「これが世間一般の意見ですよ!」と言わんばかりに…。不倫をしていた人が不倫の報道について論じるのですから「どうしてそんなこと言えるの?」と思ってしまうことはありませんか?。それでも、それを見て楽しむ人がいるから番組が成り立っているのでしょう。

また、今ではSNSの普及で、その時に思ったことをすぐさま発信できるようになっています。何も考えずに思ったことを言いたい放題というのも問題があるように思いますが、まさに現代はすべての人が自分の価値観や考え方で他人を裁く時代になってしまったのかも知れません。このように、普段から他人の善し悪しを裁いているのが私たちの姿です。人を裁き、批判する時には自分のことは棚に上げ、あるいは「自分も立派なことは言えないけれど…」と抜け道を作っておいて、他者を批判しているのです。

日本に仏教を受け入れ、仏教精神に基づく社会を実現しようとされた聖徳太子は「憲法十七条」の中で、「われかならず聖なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず。ともにこれ凡夫のみ」と仰っています。誰であろうとも失敗はあり、また失敗したからと言って絶対悪とは限りません。自分も他人も認めていくことが大切なことだと仰っているお言葉でしょう。親鸞聖人も「善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころに善しと思し召すほどに知りとおしたらばこそ、善きを知りたるにてもあらめ、如来の悪しと思し召すほどに知りとおしたらばこそ、悪しさを知りたるにてもあらめ」(歎異抄 後序)と仰っておられます。

環境、時代、国、人、言語などあらゆる状況によって物事の善悪には違いがあるし、また如来さまのように不変的な善悪を理解できるほど優れた人間ではない。つまり、「他人を裁けるような私ではない」という親鸞聖人の告白でしょう。このような法語がありました。「人は皆、裁判官。他人は有罪、自分は無罪」。裁き、裁かれるのではなく、自らを認め、他人を認め、互いに支え合うところに、自他共に心豊かに生きることのできる社会の実現が見えてくるのではないでしょうか。