『仏説無量寿経』に「兵戈無用」という言葉があります。字の通り、武力も武器も必要が無いという意味です。「仏所遊履 国邑丘聚 国豊民安 兵戈無用」(仏の遊履したまふところの国邑・丘聚、化を蒙らざるはなし。天下和順し日月清明なり。風雨、時をもってし、災厲起こらず、国豊かに民安くして兵戈用いることなし)ー 「仏の歩むところ、あらゆるところの、あらゆる人々はみな、その教えの尊さを思わない者はいない。人々のこころは、豊かに安らかであり、兵士や武器を全く必要としない世界である」と示されているのです。
つまり、仏法を拠り所とした生活は国も豊かになり、災害や疫病もあまり起こらないようになる。
そんな理想的な社会には兵士も武器も必要が無いのだということです。しかし現実を見ると、異常気象や信じられないような事件や事故、さらには戦争まで起こっています。平穏な暮らしとは程遠く、「兵戈無用」は単なる理想でしかないようにも感じてしまいます。
相田みつをさんが「セトモノ」という詩を詠んでおられます。
セトモノと セトモノと ぶつかりッこすると すぐこわれちゃう
どっちか やわらかければ だいじょうぶ やわらかいこころを もちましょう
そういうわたしは いつもセトモノ
自己中心的に物事をみて、自分の権利を主張し、自分こそ正義なのだと押しつける。どこか自分の事かなと思われる方も多いと思いますが、「私はちがう」と思われた方こそ要注意です。他人事としてではなく、私事として見ていくことが大切なことなのです。私たちは自分の思い通りにならなければ腹が立ち、怒りの心が湧き出てきます。そんな私のことを煩悩具足の凡夫というのでしょう。
親鸞聖人も「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまいもすべし」と、縁が整えば人を傷つけ、殺してしまうかも知れないのが私であると憂いておられます。心がセトモノになっていないか、常に自分自身に問い続けることが必要なことでありましょう。
また、相田みつをさんは、「教養とは知識を身につけることではない。本当の教養は、どれだけ相手の立場に立つことができるか」とも仰っておられます。
この社会は人間関係で成り立っています。この世には自分は一人、他人は八十億人。価値観、宗教、性格、得手不得手、あって当然です。他を認めていくことが、“やわらかいこころをもつ ”ということでしょう。
いま世界中で起こっている争いは、相手の立場になって考えているでしょうか。お釈迦さまは、「言い争う人々を見よ。杖を持ったから恐怖が生じたのである。」と仰いました。ここでいう杖とは相手を威嚇し、いのちを奪う武器のことです。お互いに武器を持たなければ言い争いで終わっていたことが武器を持つことで相手を恐怖に陥れ、いのちを奪うことになってしまうのです。
「兵戈無用」なんて理想論に過ぎない、と片付けられてしまいそうですが、「兵戈無用」の世界こそ仏教がめざす世界なのです。
親鸞聖人は「お念仏こころにいれて申して、世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」とお示しくださいました。自他共に心豊かに生きることのできる社会の実現をめざし、まずは私自身が仏法を聴き、「兵戈無用」の世界を願いつつ、心穏やかに生活していくことこそ、念仏者の生き方であると示されたのです。
令和五年 十一月