浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

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立場の違い

No.604

私たちは毎日の生活を平穏で穏やかに暮らしたいと思っているのに周りの様々な対立や争いごとに巻き込まれ、願っているような生活がなかなか送れないことがあります。このようなとき「相手の立場になって考えることが大切」とよく言われるます。日常生活で車に乗ったり、自転車に乗ったり、歩いたりしていますが、車に乗っているときに自転車や歩行者を邪魔に思うことはありませんか? 自転車に乗っているときに車に恐怖を覚えたり歩行者を邪魔におもったりしたことはありませんか? 自分が歩行者であるときに車や自転車に脅かされるように感じることはありませんか?

こんなとき、私たちは相手の立場になってその行為を理解してみているでしょうか。車に乗っているときには自転車や歩行者の立場に、自転車に乗っているときは車や歩行者の立場に、歩いているときは車や自転車に乗っている人の立場に思いを致すことができているでしょうか。

今の自分のことにしか考えが及ばずに、邪魔をされた相手に怒りを覚えたり、キレたりしてしまい、最近よくある痛ましい事件にまでなってしまう例は少なくはありません。

先日の新聞のコラム欄に福沢諭吉の話が載っていました。福沢諭吉は慶応義塾を創設し、壱万円紙幣の肖像にもなっている日本の近代教育を発展させた偉大な一人であります。毎朝、食事のときには子どもたちに教訓を与えていたそうですが、ある日の題材に取り上げられた「桃太郎」についての話は大変興味深いものでした。桃太郎がイヌ、サル、キジをお供にして鬼ヶ島に鬼退治に行くという昔話は皆さんもご存知のことと思いますが、「桃太郎が家来を引き連れて鬼ヶ島に行き、鬼たちの宝物を奪うのは悪いことではないだろうか」というのです。思えば過去のいきさつはともかく、今は鬼たちのものである宝物を桃太郎が暴力をもって奪い取るという行いは正しいことなのでしょうか。このことについては桃太郎伝説が伝わる岡山県でも鬼の立場になって考える授業を行う学校のことが紹介されていました。

様々な想像をふくらませて、例えば「鬼にも子どもがいたとしたら、親が突然見も知らない人に成敗されたらどんな気持ちになるだろうか。桃太郎はそれでも鬼たちを成敗したのでしょうか」とか、「鬼を悪者と決め付けてしまったことが鬼退治の出発になっているが、この前提は正しいのだろうか」という意見もあったそうです。桃太郎は鬼が強奪していったといわれていた宝物を取り返しに行くわけですが、おそらく同様の理由で今度は鬼たちが桃太郎に強奪された宝物を取り返しに行くことになるでしょう。こうなると強奪の始まりはどちらだったのか分からなくなってしまいます。こうしてお互いに強奪が何度も何度も繰り返されてしまいます。相手の立場になって考えることは大変難しい事かもしれません。しかし相手の立場に立ってみることが出来れば目の前にある風景もまったく違うものに見えてくることもあるのではないでしょうか。

意図するところは異なるかもしれませんが、コラムには棋士の加藤一二三さんの対戦中の逸話にも触れていました。対局中に相手の後ろに回りこんで盤を見つめることが度々あったそうです。棋士はめまぐるしく変わる局面で最良の一手を相手に問うものですが、自分の考え出した最良と思える一手は相手の立場になった時、どのように見えるものなのかを確認し、将棋盤をはさんで、自分が座っているところと対局者の座っているところは、一メートルも離れていないのに立場を変えるとまったく異なる意味が見えてくるかもしれないことを勝負師としての経験の中から学び、その確認を実践していたのでしょう。

自分にとって正しいことが、相手にとっても正しいことなのか。折に触れ問い直していくこと、その努力を惜しまないことが私たちの日常生活にも重要な意味を持ってきます。現代は以前にもまして複雑な社会になってきているようです。お互いが自分の側の正義を強調するあまり、相手の側の立場についての想像力が著しく欠如している出来事が数多く見受けられます。これからの時代は以前にも増して自分の意見はしっかりと持ちながらも相手の意見にも耳を傾けるという姿勢を持つことが平穏で穏やかな生活を求める上でさらに大切になってくるのではないかと思います。