ワンちゃんやネコちゃんを飼われている方も多いと思いますが、人間に比べてはるかに短いいのちであります。動物がかわいくて飼いたくなる気持ちはわかりますが、最後まで責任をもってお世話をする覚悟が必要で、生き物を飼うということは大変なことです。
イギリスのことわざに「子どもが生まれたら犬を飼いなさい」というのがあるそうです。
子どもが赤ん坊の時には守ってくれ、幼少期の時には遊び相手となり、少年期の時にはよき理解者になり、 青年になった時には自らの死をもっていのちの尊さを教えてくれるからだといいます。
以前テレビの番組で、保護されたワンちゃんが殺処分されるまでのシーンが流れていました。それを見たとき辛くなってしまい途中で見るのをやめてしまいました。
我々人間の勝手で毎日多くのいのちが犠牲になっているのが現実です。何とかして救いたいという気持ちはあってもどうすることもできず、そのとき私はテレビの前でごめんなさいと手を合わせ謝ることしか出来ませんでした。
この問題に真剣に取り組んでおられる方もたくさんいるのに、そのときの私は都合の悪いことは考えないように、見ないようにと、そのことから距離を置き、自分には関係ないこととしてしまっている自分でした。
自分に都合の悪いことは遠ざけ、都合のいいことばかりを求めているのが私たちであります。
現代は、物事の効率化ばかり求め、いのちの尊さやいのち大切さを軽視した世の中なってしまったように思います。食事をするにしても、いのちをいただき申し訳ないという思いがなくなってはいないでしょうか。
フードファイターといって、大食いを競って楽しんでいる番組が流行っていますが、いのちに感謝して食事をすることとは随分かけ離れているように思います。
我々日本人は、お米一粒一粒に神様や仏さまがいると教えられて育ってきました。一粒でも残したら目がつぶれるとよくいわれたものです。それはいのちを粗末にしてはいけないと諭したいがための言葉だったのでしょう。そして、母親はお釜についたおこげを手で取って食べていたのを今でも覚えています。今の時代、小さな子にお米一粒に仏さまがいるのだよと言う人も少なくなってきたのではないでしょうか。
仏教は縁起の教えで、あらゆるものは、お互いに関わり合って存在していると説きます。私のいのちも他のいのちのおかげで成り立っているのです。他のいのちを大切にすることは、自分のいのちを大切にすることになります。
現代の私たちは、あたかも宗教がなくても生きていけるように思っています。確かに生きていくことは出来るでしょう。しかし、人間として生きていけるかということなのです。
人間として生きるということは、いのちのつながりの中で感謝の心を持って生きることです。
現代の私たちは、自分の力で生きていると考えているところに大きな問題があるのです。
自分が自分がと、自分のことばかり考え、生かされているいのちに感謝の心を忘れる生き方は自分を苦しめ、周りを苦しめていく人生です。
朝目が覚めたとき、今日もいのちをいただけたと思うことができたでしょうか。心臓が動いてくれていて、目が見えて、音が聞こえて体が動く、こんな有り難いことはないのです。
そして、私たち浄土真宗の門徒は「なもあみだぶつ」とお念仏をいただき、阿弥陀さまのお救いの中にいるということが何よりも尊く、有り難いことです。今いただいているいのちの恵みに感謝させていただき、これからも皆様とともに仏法を聴聞させていただきたく人生を送りたいものです。
二〇二四(令和六)年 十月