浄土真宗本願寺派 興徳山乗善寺

ちょっといい話

法話

諦める

No.659

このところ、本州では暑い日が続き日本各地での記録的な猛暑を報道などでよく耳にします。

北海道でも蝦夷梅雨があり、湿度の高い日が続くようになってきました。そうかと思えば豪雨での被害があるなど、日本の環境が不安定になってきているように思われます。

世界的に見ても氷河・氷山が溶けるなど温暖化が進んできています。時間、時代とともにまた特に、人の欲望の結果が今日の地球の環境に変化を起こし、住みやすい安定した環境を望んでも難しい状況にしてしまったように思います。

望んでも叶えられない事柄は私たちの生活(人生)の中にも多くあります。煩悩(欲望)によって私たちは色々な事を望みます。あれが欲しい、これが欲しい、このままで有りたい、あのままであって欲しい・・・・など。

例えば、楽しい生活の中で歳はとらず、ずっと元気で、欲しい物が手に入り、その物がずっと新しいまま で、次に欲しくなった物も手に入れ、都合の良い時間はこのままであって欲しいと思ったりと・・・・。

どうでしょうか。このような考え方、わかりますよね。しかし、このような煩悩や欲望を抱えた考えで物事を見るからこそ私たちは苦しむのです。

自分の都合のよいことばかりを望むことはどうしても、どうあがいても無理なことであります。

楽しい時間は過ぎ去り、老いていき、病気にかかることもあるでしょう。欲しくても手に入らず、物は古くなり、都合の良い時間もそれ程は続かないでしょう。

私たちのいる無常の世の中(常が無く変化する世界)ではそれが当然のことであり、そのことで苦しみを感じながら生きていかなければなりません。

仏教に「愛別離苦」という愛しい人との別れ、離れていかなければならないという苦しみが説かれています。どうしても避けられない苦しみであります。

お寺での儀式の中に葬儀や法事がありますが、人の死と向き合わなければならないことが多くあります。

経験が多くある私たち僧侶であっても人の死と向き合うことは慣れないもので苦しいことであります。

私たちは、そういった苦しみをどうすればよいのでしょうか。

それは、立ち向かうのではなく、逃れるのでもなく、受け入れる、別の言い回しをすると『諦める』ということであります。この受け入れるということが大切なことではないかと思います。

『諦める』。私たちはこの言葉に対しては物事を途中でやめるという意味など投げやりな感覚を持って使っていますよね。しかし、この『諦める』という言葉の本当の意味は「人生の現実をあきらかに観るー気づく」ということであります。 本来の語源は仏教の「諦観」であり、「あきらかに観る」ということで、『諦』の字は「真理」・「道理」を意味する言葉です。思う様にならない人生の在りようを知らされたとき、思う様になるのが人生と思ってきた私たちの心はどのように感じるのでしょう。180度転換させられ、煩悩(欲望)から離れられない、逃れられないことを素直に受け入れるしかない心の変化が起こってきます。

飛躍をしたい言い方かも知れませんが、煩悩(欲望)を持ってしか生きられない自分であることが分かるとご縁を大切にし、人にも優しくなれたりして苦しみの中にも幸せや喜びを感じることができる人生に変えられていくでしょう。

思う様にならないこの人生を厳しく教え、その私を温かく包んで共々に歩んでくれる阿弥陀さまと強く生きていきたいものです。

令和四年九月